切符もぎりは花形嬢の役と決まっていたのだ

◆「何度見てもすごい50本」決まる、「午前十時の映画祭」
 カサブランカ▽第三の男▽天井桟敷の人々▽雨に唄えば▽ライムライト▽ローマの休日▽裏窓▽エデンの東▽ショウほど素敵な商売はない▽戦場にかける橋▽昼下りの情事▽鉄道員お熱いのがお好き十二人の怒れる男北北西に進路を取れアパートの鍵貸します太陽がいっぱいチャップリンの独裁者ベン・ハーウエスト・サイド物語アラビアのロレンス大脱走▽男と女▽ミクロの決死圏▽2001年宇宙の旅▽ブリット▽ロミオとジュリエットワイルドバンチ明日に向って撃て!ゴッドファーザー▽激突!▽フォロー・ミー▽映画に愛をこめて アメリカの夜▽スティング▽追憶▽パピヨンクレイマー、クレイマーある日どこかでライトスタッフアマデウス刑事ジョン・ブック/目撃者スタンド・バイ・ミー眺めのいい部屋薔薇の名前ニュー・シネマ・パラダイスバベットの晩餐会レインマンフィールド・オブ・ドリームス羊たちの沈黙ショーシャンクの空に


だ、そうな。
映画演劇文化協会というところが選んだ。
教科書的な、まさに、教科書的、キネ旬的に品行方正な名画がずらりと並んだ。
面白味に欠けるなどと文句を付けても始まらない。全部観たか、と尋ねられれば、7,8割掛け程度かしらという素人衆の一人ではある。
ただ、ふと想像するに、この作品群の中に、例えば、クローネンバーグ作品が一作でも混じっていたならばと考えると、何だか無性に嬉しくなってくる。「デッドゾーン」なんて何度観ても凄い作品だと個人的には思う。けれども、どうして50本の中に入るんだ、という疑念の声を挙げるファンも多そうな気がして、居心地がよくないことには確かだろう。ライミ作品なんか加えれば、完全にウケ狙いであることがばれてしまうだろうし、アンゲロプロス作品なんか加えてみれば、それは確かに一理ありましょうが、なにぶん上映時間がどうにもこうにもでしてねえ、なんて言い訳が出来そうなものだが、クローネンバーグならば、皆そこそこに良いか悪いか頭を悩ますのではなかろうか。


ところで、深夜ロードショウにはじめて出向いたのは、学生の頃で、とある大事な試験の前日であったことを覚えている。
その時に観たマラソン上映会の作品がどういったものであったのかは一切記憶に残っていないが、徹夜明け状態で臨んだ試験結果が望外に良好であったことは強く覚えている。酔っぱらいと一緒で適度なハイの状態のときのほうが頭の巡りも良いということだったのだろうか。
もう少し大人になってからの深夜上映は、嫌いではなかったものの、途中で居眠りをしたりして、精神体力的な面で次第に足が遠ざかっていった。今では10年以上そういう機会に足を運んでいないように思う。
(ところで、最近のロードショウ作品である「沈まぬ太陽」は途中休憩があるとか。3時間超の作品。途中休憩を挟むとはいえ、最近のお年寄りもタフと言えばタフではある。)


それから映画館内での爆睡記録と言えば、日本の巨匠作品「夢」。「こんな夢を見た」のテロップにまるで催眠術にかかったかのように、それは見事にすとんと眠りこけてしまった。おそらく開始15分程度で。そしてまた、眠りから覚めたときのすがすがしさも記憶に深い。勿論、本作の内容は何も覚えていない。


本日の音楽♪
「HERO」(エンリケ・イグレシアス

右心房書店問答

御近所の留さん「よお、毎度。景気はどうだい。」
右心房書店店主「見ての通り。羽振りが良く見えるかい。」
留「こんなに客が大勢入っていて、結構なことじゃねえか。」
店主「師走だから、確かに店内で物色する連中は多いさね。しかし、この中のいったい何人が本当の客なんだか。」
留「今日はひどく拗ねた物言いをするねえ。ご機嫌斜めなのかい。」
店主「見てご覧。どいつもこいつも立ち読みばかりの冷やかし客どもだ。」
留「お客の前で、何てこと言うんだい。そう思うなら、店主なんだから、ハタキでぱぱぱと、巧く捌いてやらあいいじゃねえか。」
店主「今どきそんなことをすれば、ハタキが手に当たったとかクレームを付けられて、傷害罪で訴えられるだけだよ。そんな危ない橋が渡れるかい。」
留「そんなもんかねえ。」
店主「ハタキよりも扇風機で風を送るのがわたしは効果的だと思うんだがねえ。それも、もわっとした生暖かいやつ。いやいや。生臭いやつのほうがもっと効果的かな。」
留「なにくだらないこと言ってやがるんだい。」
店主「ケーキ屋に試食があるかい。」
留「藪から棒になんだい。」
店主「ケーキ屋での試食が自由ならば、誰もケーキを買わずに試食だけして帰ってしまうわな。わたしならこれ幸いと試食だけで済ましてサイナラを決め込むわね。え?そう思わんかね。本屋だけがどうしてこうも立ち読みが許されるのか、その理不尽さがわたしにはどうしても解せないんだよ!」
留「しょうがねえこと考えてやがる。けど、逆によお、立ち読みのできない本屋なんかあったら、誰も買いに来ないぜ。それもまた商売上がったりだろうが。」
店主「全部の本をビニル包装してやろうかと考えたりするんだがねえ。」
留「やめとけよ。」
店主「どうせ暇だから。なんならカタログぶら下げるだけにしておいてさ。本の現物は一切置かない。」
留「ネット通販じゃないんだから。余程重症だねえ、こりゃ。ところで、何か店主お勧めの本でもないのかい。」
店主「留さんは典型的メタボだからダイエットの本なんかどうだい。」
留「余計なお世話だい。」
店主「『みるみる痩せる方法』。十日で10キロだ。」
留「十日で10キロとは、そりゃあ、強く出たな。どうせ、絶食か激しい運動かなんかで無理矢理に痩せちまおうってな寸法なんだろう。」
店主「痩せるも肥るも出入りの加減が肝要なことには違いあるまい。食べたらそれだけ肥るのは当たり前だわな。」
留「そういうことだよ。簡単に絶食なんかできないから皆苦労しているわけでさ。食べなくて済むなら誰も苦労はしないよ。」
店主「空腹の行き着く果てには、桃源的麻薬的快楽が待っているのだそうな。」
留「やだよ、俺。そんなランナーズハイみたいなの、くたばる直前の状態じゃないか。そんな本、俺要らない。」
店主「じゃあ、留さん、いつもお金にひいひい言っているから、『みるみるお金が貯まる方法』。どうかね、これ。」
留「重ね重ね余計なお世話だよ。それにしても、そういう『みるみる』本しか売っていないのかい、この本屋は。」
店主「十日で10万円貯める方法とある。」
留「似たような話ばかりだな。どうせ、「節約!節約!」か、「一発大穴!」とか、そんな浮世離れした内容の本なんだろ。」
店主「簡単にお金が貯められたら誰も苦労はしない。」
留「そりゃ、さっきの俺の台詞じゃねえか。」
店主「だからこそ、この本に意味があるということだわな。」
留「で、その秘訣ってのは何なんだよ。」
店主「ウチは試食は一切ないの。」
留「何だと、こんちくしょう。買えって言うのかよ。この店はいつから啖呵売の大道商人になったんだ。」
店主「知りたくないの?」
留「こんちくしょうめ。」
店主「十日で10万円だよ。」
留「ふん。知りたかねえよ。そんな空想話。もしそれが本当だったら今頃店主が銭をしこたま儲けて俺に一杯奢ってくれていそうなもんだろうが。」
店主「何だ、知りたくないんだ。」
留「ああ。知らなくてもいいよ。そんなインチキ話。」
店主「10万円損したな。」
留「負け惜しみじゃなく、俺は何にも損していねえよ。」
店主「損したのはわたしだ。」
留「何?」
店主「この本、1冊千円。1日10冊売って、十日で10万円。勘定が狂った。」
留「呆れた。買わなくてよかったよ。」
店主「節約もいいぞ。節約も究めれば、ある状態から、突然、桃源郷的快楽状況に襲われてだな。」
留「また、ランナーズハイかよ。いいよ、そんな快楽。それよりも立ち読みの冷やかし客ばかりで店主がそんなにイライライライラしているんだから、それを究めれば、桃源郷でも阿片の国にでも容易に行けるんじゃないのかい。」
店主「成る程!それは名案だ。留さんもたまにはまともなことを言う。」
留「だからさあ、我慢して立ち読みを許してくれっていうことなんだよ。」
店主「この際、椅子とソファを用意すべきかね。」
留「そりゃ、何だか凄いね。」
店主「サービスにコーヒーとクッキーでも付けようか。」
留「客の側からしちゃあ、そりゃ有り難いけどよお。そこまでやっちゃ、商売にならないのと違うかい。」
店主「お帰りには『みるみる痩せる方法』か『みるみるお金が貯まる方法』を進呈しようか。」
留「いらないよ、そんな本。」


本日の音楽♪
「乙女座宮」(山口百恵

一瞬の風か、強く吹いている風か

事業仕分けに対するアカデミアからの反撥の声は未だに引きも切らない。
しかし、科学技術は重要だ、費用対効果はもっと長期的な視点で、といった反論は間違ってはいないだろうけれども、観衆の心をあまり打ちそうにない。のっぺりした話ばかりでは大衆はすぐに厭きてしまうのだ。
あるいは、敢えてリンクは張らないが、中には、悪のりをして我田引水な事業復活を記者会見まで開いて要請した某大の教授連がいて、ある政治家OBに「TO大を笠に着て」と厳しく窘められていた。
総じてアカデミアに対する国民の風は、残念ながらアカデミアの真剣具合に正比例することなく、暖かくはないものと自覚すべきなのだろう。
国民の関心がどちらかというと目先のお財布の中身にだけ向いている中で、もう少し相手の一歩先を行く議論を仕掛けたいところである。
そして、ここに来て漸く冷徹な視線も垣間見られるようになってきた。
科学技術と国家の関係という捉まえ方の視点を提示したのは、元京都大学基礎物理学研究所所長の佐藤文隆甲南大教授である。

(略)
世界を見ると、科学と税金の関係を劇的に表現して見せたのは米国での「SSC」(超伝導超コライダー)建設中止事件です。レーガン大統領が1988年、両脇にノーベル賞を受賞した素粒子物理学者たちをずらり並べた記者会見で、大々的に発表した計画です。既に20%程度建設が進んでいたのが政権交代で1993年に中止となりました。2,000人の首をきり、投入済みの20億ドルに加え、加速器用のトンネルを埋め戻すのにも巨額な費用をかけました。
当然、物理学者たちの猛反発があり、私自身も日本人なのにカッカカッカしたことを覚えています。ただ、いろいろ考えるうちに、SSCは政争の具にされて葬られたというのは皮相な見方だと考えるようになりました。この過程を書いたのが「科学と幸福」(岩波書店、1995年)という本ですが、冷戦体制の崩壊という国際情勢の大きな流れが背景にあり、国民の見方の変化を政治家が敏感に察知したということなのです。ノーベル賞受賞者数の増大、国家のプレステージ向上、人類のフロンティア開拓といった政府の呼びかけに国民は感動しなくなったという変化です。「巨大加速器」か「健康保険制度」のどちらが大事か、とクリントン民主党政権が国民に問うことは十分あり得たということです。
(略)


なるほど、学者ならばこういう発言をせねば。
どちらが優れているということではないが、上記学者先生の発言は「国民目線」のものではない。寧ろ「国家目線」と云えばよいだろうか。
今回の仕分け作業の考察の中で、透明性が確保されて、国民の関心が高まって、説明責任の機会が果たされて、良かったね良かったよという声が多かったが(※ところで、説明責任が果たされる以上、それを聴いた側はインフォームドコンセントの意思表示の責務が生じると思うのだが、そうした指摘はどこからも聞こえてこない。その件はいずれまたの機会に論じたい。)、それは現政権(ほうら、リーダーが猫目小僧に見えてくる、見えてくる…)が謂わば金看板として掲げる国民目線を正に現実化していることを評価しているのであろう。サーカス議論も少なくない中で、多くの論調が真摯な意味でこれを評価し、そのように考察をしている。
而るに、繰り返すが、国民目線よりも国家目線が優れているとは云わないまでも、国民目線万能論(優先論)には大いに違和感を覚える。
例えば、国民主権が国民目線によって実現されるという錯覚を持った人間が多くいやしまいか。あるいは、国家目線という大上段的な考え方が、一人一人の人権を蔑ろにするという(要すれば「全体主義」に過ぎるとの)アレルギーを持つ人は、本当にそのことが国家国民にとっての真のアレルゲンなのだろうか。
こうした科学技術と国家の関係などという問題は国政の場で議論すべきであることは論を俟たないものの、では、そうした戦略や中長期展望というフレームワークパースペクティブが仮に出来上がったとした場合、その上での国民目線とは何なのだろうか、あるいは、仮に事業仕分けがあり得るものとしてその位置付けはどう変わるのだろうか。
よくよく考えてみたいアジェンダではある。


本日の音楽♪
「そばかす」(中川翔子

謎は人間の中にこそある

「犬派」だとか「猫派」だとかの他愛ない話は、血液型性格判断と同じで戯けたテーマなので、スイカ味チョコレイトと同じくらいまったく個人的興味は沸かないが、それとは無関係に、本日は犬の話題を取り上げてみる。
すると、そこへ、「犬でも猫でもどうでもいいがな。とにかく、足の臭いが一番じゃが。」という人間が突然登場をする…

◆女子生徒の上履きなど74足盗難「気持ち悪い」
 ●都府京●辺市の市立●辺中で、げた箱から女子生徒の上履きなど74足がなくなっていたことがわかった。●辺署が窃盗事件として捜査している。
 同校の●下●一教頭は「こんな事件は初めてで気持ち悪い。目的も分からず、生徒も保護者も不安がっている」と話した。


確かにこんな事件は気持ち悪かろう。被害に遭われた関係者の心中をお察しする。
だが、一言申し述べさせていただければ、その不安の原因は、犯行目的が判然としていないことにあるのではない。
目的は、それはもう明瞭、明確に、はっきりとしている。
誰が何と言おうが、犯人は、臭いフェチに間違いない。
どうしてメディアはその点をはっきり指摘しないのだろうか。臭いフェチが市民権を得ていないから?
永遠に市民権など得られるかどうかはともかく、彼らの存在自体は、NASAに登場頂くまでもなく、空飛ぶ円盤以上に定かなものがあるだろう。
臭いフェチにどういった流派や縄張りがあるのかはとんと不作法ではあるものの、大きく分類すれば、体臭派か。それでもって、さらに中分類として、こういう靴下こもり系臭いを好む一派もいるのだろうな、おそらく。(小分類以下の詳細は流石に承知しない。)
気持ちが悪いとすれば、そういった常人には計り知れない性癖を持っていることそのものであり、万が一仮に、「蓼食う虫も好き好き」とそうした性癖を達観できたとしても、その性癖がどんどんエスカレーションして傷害行為等に及ばないかという不安がつきまとうのであろうと推測する。
いずれにせよ、74足の上履き靴である。相当に臭う筈だ。
犯罪対策専門集団の警察であれば、お手の物だとは思うが、犯人追跡の鍵は臭いにあるのだとわたくしは思う。
妙な煙の上がる焚き火の傍でうっとりしている輩が居たら、それは怪しい。
あるいは、臭いを追跡すべく、警察犬に登場願えば一網打尽ではなかろうか。
それとも、あまりの臭いに警察犬のほうも「ちょっと今回だけは勘弁してくれませんかねえ」と尻込みをしてしまうのだろうか。


>>
◆警察犬試験6度目も涙、めげずに訓練「き●子」
 警察犬の試験に落ち続けても、めげずに訓練に励む姿が人気を集める●川県の丸●警察犬訓練所の「き●子」(雌、7歳)が17日、同県丸●市であった6度目の試験に臨んだ。
 訓練士の川●智●さん(25)とコンビを組み、5枚の布から、事前にかいだのと同じにおいの1枚を選ぶ「臭気選別」にチャレンジ。昨年は4問中2問を当てたが、今年は1問も正解できず、不合格に。
 「き●子」を主人公にした映画が来夏にも全国で公開予定。訓練所側は来年も挑戦させることにしており、「あきらめずに頑張って」と期待をかける。

巣ごもりの冬

COP15の宴も終わった。無礼にも中国が場をぶち壊しただの、インドが相変わらずのKYな唯我独尊ぶりを発揮しただの、罵り合いや余談のネタには未だ事欠かないが、いずれにせよ、目先の利益に勝るインセンティブはなさそうだ。
朝三暮四の猿たちを嗤えない人類がそこにいるということなのだろうか。前向きに捉えれば、わたくしたちはまだまだオトナになる余地がある、ということになるのだろうか(本当にそれが可能かどうかはまた別問題)。
さて。
ガーディアン紙のサイモン・ジェンキンズ氏によるコラム記事を取り上げてみたい。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/dec/22/blame-for-winter-travel-chaos

(仮訳)
◆冬の旅の混雑を非難してはいけない。家でじっとしていよう。
Hypermobility(過可動性)は、現代に生きる人々にとっての麻薬であり、コミュニティとこの星を破壊する強迫的観念でもある。タダの旅などありえないのだ。

 自然は皮肉を好む。うす暗いコペンハーゲングラストンベリーでの会合が先週終わり、地球温暖化ルーピーたちがジェット機での帰路についた。そして、こともあろうに、彼らは寒波の出迎えを受けたのだった。「英国の道路、鉄道網、空路が麻痺!」ガーディアン紙が叫ぶ。タイムズも騒ぎ立てる。「ここ数年来で最悪の状況!」BBCが尋ねる。「政府の対策は十分と言えるのか?」英国はほんのわずかの氷で麻痺状態に陥った。それは「フランスからのふわふわの粉雪が災いのもと」であった。全てはフランスのせいなのだ。
 冬の旅の混乱を防ぐための私の解決方法は、といえば、それは旅をしないことである。家の中でじっとしていること。自ら火を興し、日常生活で歩く距離の範囲内で買い物を済ませ、生活すること。隣近所とのつきあいを欠かさないこと。ごくたまにだけ、遠くの親類に会うこと。とりわけ、高速道路、駅と空港に囲まれた状況の中で、天候や労働者があなたを失望させることがあったとしても、不平不満を言わないこと。彼らが間違っているのではない。あなたがそこにいることが原因なのである。
 利己的な動機に端を発する人間の全活動の中で、旅に匹敵する利己的活動は他にないだろう。旅の外部不経済効果については、あらゆる学校のカリキュラムに盛り込むべきだ。他に類似した必要表示がなくても、我々は自身の目だけを通して可動性というものを見ることができる。私は、無邪気に歩き回る権利を楽しむことができる自由で独立した人間である。あなたは、ちょうど私がそこにいるとき、タールマック、電車や飛行機に対して神が与えた権利と思う旅行狂のレミングなのである。それは私の道から外れている。
 解決よりもむしろ問題点を例示するものであることを示唆した点を除いて、私はコペンハーゲンの惨めな結果にくよくよする必要はないと考える。移動制限は、少なからずインターネットの栄光によって人々に齎された、炭素燃焼に係るすべてのものよりも、過去の半世紀にわたるCO2排出において最も偉大な貢献者であったと言える。家庭からの全温室効果ガス排出量(英国全体の24%相当)は、現時点において、道路の運輸部門からの排出量と同水準である。旅行をすることは、他の全ての国内の活動と同じくらい地球の大気に多くの損害を与えるものである。それでも、移動の勢いは、政府がそれを抑制する気がないというあらわれでもある。過可動性は、個人の自由の象徴でもある。トニー・ブレアゴードン・ブラウン政権の下での新雇用政策は、可動性という点で非常に甘いものがあったと言わざるを得ない。ブレア政権の下で、個人の自動車運転に係る費用は、ここ四半世紀において最も低水準であった。車両混雑に係る費用が£240億ポンドまで上昇したと計算したロッド・エディントン卿の2006年のレポートは、拒絶された。また、鉄道のより良い管理方法として、新しい路線は必要なく需要を満たすことができるだろうという彼の結論もそうであった。鉄道助成金(それは炭素を非常に使う)は、4倍になった。飛行機旅行は、免税のままである。航空機利用の約90%が自由裁量や余暇旅行を目的にしたものであるにもかかわらず、空港建設はそのスピードを早めている。
 一方で、政府は小学校、小病院、郵便局といった地元の施設を閉鎖し、町での買い物や地方定住を反・促進させる政策を進めている。これらのすべては、必要な自動車旅行の増加に繋がるものでもある。病院訪問が5マイルよりむしろ50回のドライブを必要とするならば、NHSは支払わない代わりに、誰かがその支払いを行うのである。それは誰にも該当する。
 今年の不況のピーク時に、マンデルソン卿の好意によって直接的な助成金という安全シートベルトを与えられた唯一の産業は、自動車業界であった。唯一彼らだけは、愛されている銀行を救う金を見出すべく、アリステア・ダーリングによって組織化された一般的要求において、破綻から保護されていた。歩くトランクは言うまでもなく、自転車もそのスキームには含まれてはいなかった。
 地理学者のジョン・アダムズが指摘するように、可動性は「個人にとっての自由と公的な権限を与える」ものかもしれないが、それ以上に、よりよい生活と、コミュニティと市民との結合に必要な要点を破壊するものなのである。インターネットが逆説的に、より効率的になることによって旅を促進するように、過可動性は本来の近所を疑似のそれと入れ替えたのだった。人々は新しい経験ができるところならばどこへでも急ぎ、週末には地球温暖化会議を破壊しに向かうのである。過可動性は、人々にとっての麻薬なのである。それは共同体意識を鈍くさせる一方で、刹那的満足に迎合するものなのである。
 ジェット機旅行が発明される前から、冬の休日についてのアイデアは、まさしくお金持ち以外には考えられなかったことである。どんな旅行にも災難が降りかかることは、およそ確かなことだろう。チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」は、雪で立往生したわけではない。今日の旅行業界は一年中我々の個人的な都合のために戦時体制下にあると考えても良いだろう。そして、パフォーマンスが水準に達していない時には、我々はその欠点を見つけ出し、政府を非難する。英国航空のスチュワードがストライキするのを禁止しろ。ユーロスターからその契約をはぎとれ。どうしてもっと多くの電車が走らないんだ?砂まみれのトラックはどこだ?誰かを首にしろ。
 過可動性が方向感覚を弱め、専ら炭素排出量を増やすことから、政府は抑制、あるいは、少なくともこの進行を抑えるための責務を負う。このことは、これまでにより長い旅の必要性を最小限にするために町や地方が計画するということを意味する。また、混雑や価格による旅のキャパシティといったことを意味する。政府は価格統制を嫌うことから、ほとんどの場合は混雑による割当てを選択する。夏や冬の「道路と鉄道の混雑」は、管理者への非難という結果を齎す。誰もが現実問題として、車、電車、飛行機が麻痺状態を起こす原因であると思っている。
 国内のエネルギー消費の観点からみて、輸送に係る価格体系においてどういった政策がその回避・抑制策として相応しいのか私には分からない。こうした政策は、旅が日常的なものではなく贅沢なものと考えられていた当時から適用可能なものであったのだろう。行程と会議がビジネスの特権でもあるように、週末に2,3の休暇を加えて海外に向かうことは、隣の芝生が青いという夢を抱えた自由裁量のオプションなのでもある。
 何百万人もの貧しい人々に対してその夢を拡張することは、繁栄が齎す最も明確な果実の一つではある。しかしながら、それはお金がかかることでもあり、段々それが予想以上に高くなっていくものでもある。そうした価格は、燃料税、道路通行料、鉄道料金、空港税といった需要を抑制するあらゆるものにおいても適用されなければならない。
 これに関して、2つの手段というものはあり得ない。旅は、この星の他のユーザーに押しつけられる世界的な外部不経済効果をもたらす。歩き回ることの絶対の権利というものはあり得ない。タダの旅はあり得ない。我々は、自らの活動空間の再生を開始しなければならないのである。


これも一種のファンダメンタリズムといえようか。
モータリゼーション教とでも呼べばよいか。当然、その延長線上には、反グローバリゼーションであるとか、反文明論という過激な主義信条が垣間見えてくる。(そして、そうした急進主義に歯止めを掛けるためのストッパーをこうしたファンダメンタリストたちは常備している由もない。)
文明が発達して、利便性が向上して、生活の質に対する満足水準が高まる反面、わたくしたちが怠惰になってきるのではないか。一種の退化、退廃が進んでいるのではないか、といった論調はよく耳にするところである。
わたくし自身、そうした指摘の退化現象を実感しているわけではないが、「行き過ぎ」の部分と「忘失」の部分は確かに感じないでもない。
前者はいわずもがなのことではあるが、例えば、SFワールドでよく出てくるロボット世界を想像すれば、分かり易い。むしろ、それ以上に後者について深刻に思うところがわたくし自身の中にある。
それは、生活の豊かさによって忘れがちになってしまうこと、あるいは、過去の労苦とか自然のありがたさとか言ったことではなく、格差の存在についてである。
つまり、こうして便利な利器の機会という恩恵を享受している人間がいる一方で、そうではない人間も多く存在をする。恩恵という機会によって人間としての価値に違いを生じせしめる考え方が排除されることは当然のことであるにせよ、実際に日々の生活の格差というものは厳然と存在するわけである。
そういう矛盾を天に向かって嘆いているだけではおよそ詮無い。では、上記コラムニストのように自然に帰れと言う原点回帰思考を持つべきかといえば、そんな考えに同調する気もさらさらにない。
むしろ、そうした格差を自覚自認することで、先程述べたような何らかのストッパー作用が働くことにわたくし自身期待しているといったことなのかもしれない。



本日の音楽♪
「中央線」(上條恒彦

ドラムスをばしばし叩きながら、毎日がクリスマスだったらいいのに、と唄わせていただきます

米国国務省のCROWLEY次官補が12月22日の定例記者会見の場で、重大報告を行っている。
これが事実であるとすれば、これまでの世間に蠢く数多くの陰謀説など屁にもならぬほどの衝撃的ニュースとなるだろう。
喩えるならば、日本で言えば、「首相、官邸で密かにツチノコを飼い馴らす」といったような特ダネニュースに相当するだろうか。
米国メディアがこの件を大きく伝えていないのが謎だ。メディア界にも闇の勢力の力がなにがしか働いているということなのだろうか。
げに陰謀の種は尽きまじ。
http://www.state.gov/r/pa/prs/dpb/2009/dec/133951.htm

MR.CROWLY:And finally, a few of you have asked about the schedule of the Secretary of State over the next few days. I can tell you this morning the Secretary departed Washington and she stopped at the North Pole for an important bilateral meeting with a well known international figure. During the meeting, in a formal demarche, sung to the tune of Twelve Days of Christmas, the Secretary outlined her aspirations for the new year. They include, and feel free to hum along: open and accountable governments, Middle East negotiations, more civilians in Afghanistan, empowerment of women, fewer nuclear weapons, respect for human rights, resolution of historic grievances, treaties through the United States Senate, Six-Party Talks, dialogue with Iran, enough food for people of the world to eat, climate change legislation, and lastly, a championship for the Boston Red Sox. Okay, that last one’s not on her list, but Harold Koh and I thought it was important that we mention that here.

(仮訳)
CROWLY次官補:ええ、それから最後に。何人かの記者の方々から、ここ数日間の(ヒラリー・クリントン国務長官の予定についての質問がありました。長官は先般ワシントンを離れ、国際的な著名人との間で極めて重要な2国間首脳会議を極秘に行うために北極圏に立ち寄ったことを皆さんにここでご報告したいと思います。会議の中で、長官は、「クリスマスの12日間」を口ずさみながら、新年に向けた彼女の抱負を概説したとのことです。鼻歌は無礼じゃないそうでして、鼻歌交じりに以下の事項の抱負を列挙したとのことでした。…より開かれ信頼される政府。中東交渉。アフガニスタン文民派遣問題。女性の権利拡大。核兵器の削減。人権擁護。歴史的に懸案となっている事項の上院通過。北朝鮮の6者協議問題。イランとの対話。世界の人々に十分な量を供するための食料問題。気候変動に関するルール作り。そして、最後に、ボストン・レッドソックスの優勝。ええ、宜しいでしょうか。なお、最後の一項目は彼女の発言でなく、ハロルド・コウと私が是非とも言及すべきということでこの際追加した次第であります。

QUESTION: And it’s gotten that bad, huh? She’s got to go ask Santa for this stuff? (Laughter.) That’s a pretty damming statement.
MR. CROWLEY: Whatever it takes. With that, I’ll be happy to take your questions.

質問:ええと、無粋な質問で悪いんですけど。長官はサンタクロースに逢いに行ったということなんでしょうか?(笑)話の腰を折ってごめんさい。
次官補:いかようにも。ご質問に感謝します。


実は、わたくしも昨日某スーパーマーケットストアの店内で本物のサンタクロースに遭遇をした。それは陰気な東洋人や脳天気な若者の仮装とかではなく、180センチメートルをゆうに超える巨躯と本物の太鼓腹を揺らしながら、正しい英語の発音で、「メリー・クリスマス!ハーハッハッハッハ(正確には、「ハ」と「ホ」の中間の発音である。)…」と、すれ違う人々に陽気な声をかけて練り歩いていた。そして、子供達は彼からお菓子の包みを嬉しそうに貰っていた。あの子供達はきっと本物のサンタクロースにあうことができたわと心の底から信じたことだろうと思う。あいにく彼はわたくしにはお菓子の包みはくれずに、ハーハッハッハッ!と笑って握手をしてくれただけであったが。


本日の音楽♪
「つ・き・あ・い・た・い」(宮田和弥

1万円のラーメン

サラリーマンらしい若者の二人連れが電車内で話している。
A:「知ってるか。1万円のラーメンを食べさせる店があるらしいぜ。一度でいいから、そんなラーメン食べてみてえよな。」
B:「1万円かあ。いったいどんなラーメンなんだろう。」
A:「何でもよ、高級食材の粋を集めた上で3日間もかけてスープを作っているんだと。そのスープの手間暇に金をかけてて、具は何も入っていないらしいんだとさ。」
B:「へえ、そうなんだ。本当においしんだろうかね。」
A:「それがよ、食べた客皆が皆、押し黙ってしまうくらい、うまいらしいぜ。俺も食べてみてえけど、1万円じゃさすがにちいと躊躇するわなあ。」
B:「凄い商売を考え出すもんだね。」

そこへ謎の白髭の老人が現れ、二人の会話に口を挟む。
老人:「うまいから、客が押し黙ってしまうのではないぞ。」
若者達は、なんだこのおっさんは?という視線で老人を見る。老人は全く気にするそぶりも見せずに語り始める。
老人:「決して不味くはないのであろうがな。しかし、そうであるにせよ、この味は確かに1万円を払うに相当する味なのかどうか、高すぎるということはないだろうか、あるいは、値段相応の味として満足してもよいものだろうか。そういったことを食べた本人自身があれこれ思案した末に、結局よく分からぬものだから、黙っているよりないということなのだ。おぬしたちは、1万円のメニューの食材を何か食べたことがあるか?」
二人は首を振る。
老人:「5百円のラーメンが5百円の金額に相当するものかどうか。千円のラーメンではどうか。そういったことは常人であっても、長年の己の経験と自分の舌でその味覚の価値を価額という物差しで判断ができる。しかし、1万円ともなると、そもそもの物差しの距離感が舌と釣り合わなくなる。そこで、混乱が起きるわけであるのだな。確かに旨いには違いないが、本当に一万円に見合う味なのか?とな。」
B:「確かに、松茸にしろ、高級ワインを口にしても、本当においしいのかどうかよく分からないまま、ありがたがって口にしているところはあるよね。」
老人:「然り。それが妥当な値段であるのかどうか誰も文句が付けようがない。そこに目を付けたうまい商売というわけである。」
A:「けれど、松茸でも高級ワインでもよ、1万円にまつわるブランドそのものに価値があるっつう考え方もあるんじゃねえか。」
老人:「それも一理ある。しかし、ブランドと名乗る以上は客と店主の間に暗黙の了解事項が必要になる。ラーメンを食べるという行為に、おぬしならは、味以外の何の価値を求めるというのかな。店の雰囲気か。店主の尊顔か。1万円のラーメンを食べたという事実か。これまでのラーメン屋のラーメンの値段というものは、材料費と人件費と地代に基づいておるというのが一般的ではなかろうかて。」
B:「正に情報の非対称だね。」
老人:「難しいことは分からぬが、1万でも2万円でも店主の言い値の世界であるわけであるな。」
B:「言われてみれば、何だか、虚業の味わいがするなあ。」
A:「それでもありがたがって来る客がいるということは、需要の上に成り立っている確かな商売だということだと俺は思うぜ。」
B:「需要が客の間から沸いて出てくるものなのか、供給側が作り出すかは、両論有りそうだけれどもね。」
A:「それでも、俺はやっぱりその1万円の味を確かめてみたいね。舌がどう戸惑おうがどうでもいいさ。何より、彼女の前でいい顔を見せるという手段として使えるかもしれねえじゃねえか。おい。」
老人が身を乗り出す。
老人:「然らば、拙者に10万円を託してもらえんじゃろうか。その価額に見合った味を馳走して進ぜよう。ラーメンというわけにはいかないが、社会的にも十分価値の認められた正当で本格的な味が所望できるのじゃぞ。」
若者達は、驚いて尋ねる。
A:「10万円の味?」
B:「それってもしかして、デパートで有名料亭のお節料理を買ってきて食べさせるって言うことじゃないの?おじさん。」
老人:「その代わり、手数料は2割いただく。」
そう言って、老人は黄色い歯をみせてニッと嗤った。


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