巣ごもりの冬

COP15の宴も終わった。無礼にも中国が場をぶち壊しただの、インドが相変わらずのKYな唯我独尊ぶりを発揮しただの、罵り合いや余談のネタには未だ事欠かないが、いずれにせよ、目先の利益に勝るインセンティブはなさそうだ。
朝三暮四の猿たちを嗤えない人類がそこにいるということなのだろうか。前向きに捉えれば、わたくしたちはまだまだオトナになる余地がある、ということになるのだろうか(本当にそれが可能かどうかはまた別問題)。
さて。
ガーディアン紙のサイモン・ジェンキンズ氏によるコラム記事を取り上げてみたい。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/dec/22/blame-for-winter-travel-chaos

(仮訳)
◆冬の旅の混雑を非難してはいけない。家でじっとしていよう。
Hypermobility(過可動性)は、現代に生きる人々にとっての麻薬であり、コミュニティとこの星を破壊する強迫的観念でもある。タダの旅などありえないのだ。

 自然は皮肉を好む。うす暗いコペンハーゲングラストンベリーでの会合が先週終わり、地球温暖化ルーピーたちがジェット機での帰路についた。そして、こともあろうに、彼らは寒波の出迎えを受けたのだった。「英国の道路、鉄道網、空路が麻痺!」ガーディアン紙が叫ぶ。タイムズも騒ぎ立てる。「ここ数年来で最悪の状況!」BBCが尋ねる。「政府の対策は十分と言えるのか?」英国はほんのわずかの氷で麻痺状態に陥った。それは「フランスからのふわふわの粉雪が災いのもと」であった。全てはフランスのせいなのだ。
 冬の旅の混乱を防ぐための私の解決方法は、といえば、それは旅をしないことである。家の中でじっとしていること。自ら火を興し、日常生活で歩く距離の範囲内で買い物を済ませ、生活すること。隣近所とのつきあいを欠かさないこと。ごくたまにだけ、遠くの親類に会うこと。とりわけ、高速道路、駅と空港に囲まれた状況の中で、天候や労働者があなたを失望させることがあったとしても、不平不満を言わないこと。彼らが間違っているのではない。あなたがそこにいることが原因なのである。
 利己的な動機に端を発する人間の全活動の中で、旅に匹敵する利己的活動は他にないだろう。旅の外部不経済効果については、あらゆる学校のカリキュラムに盛り込むべきだ。他に類似した必要表示がなくても、我々は自身の目だけを通して可動性というものを見ることができる。私は、無邪気に歩き回る権利を楽しむことができる自由で独立した人間である。あなたは、ちょうど私がそこにいるとき、タールマック、電車や飛行機に対して神が与えた権利と思う旅行狂のレミングなのである。それは私の道から外れている。
 解決よりもむしろ問題点を例示するものであることを示唆した点を除いて、私はコペンハーゲンの惨めな結果にくよくよする必要はないと考える。移動制限は、少なからずインターネットの栄光によって人々に齎された、炭素燃焼に係るすべてのものよりも、過去の半世紀にわたるCO2排出において最も偉大な貢献者であったと言える。家庭からの全温室効果ガス排出量(英国全体の24%相当)は、現時点において、道路の運輸部門からの排出量と同水準である。旅行をすることは、他の全ての国内の活動と同じくらい地球の大気に多くの損害を与えるものである。それでも、移動の勢いは、政府がそれを抑制する気がないというあらわれでもある。過可動性は、個人の自由の象徴でもある。トニー・ブレアゴードン・ブラウン政権の下での新雇用政策は、可動性という点で非常に甘いものがあったと言わざるを得ない。ブレア政権の下で、個人の自動車運転に係る費用は、ここ四半世紀において最も低水準であった。車両混雑に係る費用が£240億ポンドまで上昇したと計算したロッド・エディントン卿の2006年のレポートは、拒絶された。また、鉄道のより良い管理方法として、新しい路線は必要なく需要を満たすことができるだろうという彼の結論もそうであった。鉄道助成金(それは炭素を非常に使う)は、4倍になった。飛行機旅行は、免税のままである。航空機利用の約90%が自由裁量や余暇旅行を目的にしたものであるにもかかわらず、空港建設はそのスピードを早めている。
 一方で、政府は小学校、小病院、郵便局といった地元の施設を閉鎖し、町での買い物や地方定住を反・促進させる政策を進めている。これらのすべては、必要な自動車旅行の増加に繋がるものでもある。病院訪問が5マイルよりむしろ50回のドライブを必要とするならば、NHSは支払わない代わりに、誰かがその支払いを行うのである。それは誰にも該当する。
 今年の不況のピーク時に、マンデルソン卿の好意によって直接的な助成金という安全シートベルトを与えられた唯一の産業は、自動車業界であった。唯一彼らだけは、愛されている銀行を救う金を見出すべく、アリステア・ダーリングによって組織化された一般的要求において、破綻から保護されていた。歩くトランクは言うまでもなく、自転車もそのスキームには含まれてはいなかった。
 地理学者のジョン・アダムズが指摘するように、可動性は「個人にとっての自由と公的な権限を与える」ものかもしれないが、それ以上に、よりよい生活と、コミュニティと市民との結合に必要な要点を破壊するものなのである。インターネットが逆説的に、より効率的になることによって旅を促進するように、過可動性は本来の近所を疑似のそれと入れ替えたのだった。人々は新しい経験ができるところならばどこへでも急ぎ、週末には地球温暖化会議を破壊しに向かうのである。過可動性は、人々にとっての麻薬なのである。それは共同体意識を鈍くさせる一方で、刹那的満足に迎合するものなのである。
 ジェット機旅行が発明される前から、冬の休日についてのアイデアは、まさしくお金持ち以外には考えられなかったことである。どんな旅行にも災難が降りかかることは、およそ確かなことだろう。チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」は、雪で立往生したわけではない。今日の旅行業界は一年中我々の個人的な都合のために戦時体制下にあると考えても良いだろう。そして、パフォーマンスが水準に達していない時には、我々はその欠点を見つけ出し、政府を非難する。英国航空のスチュワードがストライキするのを禁止しろ。ユーロスターからその契約をはぎとれ。どうしてもっと多くの電車が走らないんだ?砂まみれのトラックはどこだ?誰かを首にしろ。
 過可動性が方向感覚を弱め、専ら炭素排出量を増やすことから、政府は抑制、あるいは、少なくともこの進行を抑えるための責務を負う。このことは、これまでにより長い旅の必要性を最小限にするために町や地方が計画するということを意味する。また、混雑や価格による旅のキャパシティといったことを意味する。政府は価格統制を嫌うことから、ほとんどの場合は混雑による割当てを選択する。夏や冬の「道路と鉄道の混雑」は、管理者への非難という結果を齎す。誰もが現実問題として、車、電車、飛行機が麻痺状態を起こす原因であると思っている。
 国内のエネルギー消費の観点からみて、輸送に係る価格体系においてどういった政策がその回避・抑制策として相応しいのか私には分からない。こうした政策は、旅が日常的なものではなく贅沢なものと考えられていた当時から適用可能なものであったのだろう。行程と会議がビジネスの特権でもあるように、週末に2,3の休暇を加えて海外に向かうことは、隣の芝生が青いという夢を抱えた自由裁量のオプションなのでもある。
 何百万人もの貧しい人々に対してその夢を拡張することは、繁栄が齎す最も明確な果実の一つではある。しかしながら、それはお金がかかることでもあり、段々それが予想以上に高くなっていくものでもある。そうした価格は、燃料税、道路通行料、鉄道料金、空港税といった需要を抑制するあらゆるものにおいても適用されなければならない。
 これに関して、2つの手段というものはあり得ない。旅は、この星の他のユーザーに押しつけられる世界的な外部不経済効果をもたらす。歩き回ることの絶対の権利というものはあり得ない。タダの旅はあり得ない。我々は、自らの活動空間の再生を開始しなければならないのである。


これも一種のファンダメンタリズムといえようか。
モータリゼーション教とでも呼べばよいか。当然、その延長線上には、反グローバリゼーションであるとか、反文明論という過激な主義信条が垣間見えてくる。(そして、そうした急進主義に歯止めを掛けるためのストッパーをこうしたファンダメンタリストたちは常備している由もない。)
文明が発達して、利便性が向上して、生活の質に対する満足水準が高まる反面、わたくしたちが怠惰になってきるのではないか。一種の退化、退廃が進んでいるのではないか、といった論調はよく耳にするところである。
わたくし自身、そうした指摘の退化現象を実感しているわけではないが、「行き過ぎ」の部分と「忘失」の部分は確かに感じないでもない。
前者はいわずもがなのことではあるが、例えば、SFワールドでよく出てくるロボット世界を想像すれば、分かり易い。むしろ、それ以上に後者について深刻に思うところがわたくし自身の中にある。
それは、生活の豊かさによって忘れがちになってしまうこと、あるいは、過去の労苦とか自然のありがたさとか言ったことではなく、格差の存在についてである。
つまり、こうして便利な利器の機会という恩恵を享受している人間がいる一方で、そうではない人間も多く存在をする。恩恵という機会によって人間としての価値に違いを生じせしめる考え方が排除されることは当然のことであるにせよ、実際に日々の生活の格差というものは厳然と存在するわけである。
そういう矛盾を天に向かって嘆いているだけではおよそ詮無い。では、上記コラムニストのように自然に帰れと言う原点回帰思考を持つべきかといえば、そんな考えに同調する気もさらさらにない。
むしろ、そうした格差を自覚自認することで、先程述べたような何らかのストッパー作用が働くことにわたくし自身期待しているといったことなのかもしれない。



本日の音楽♪
「中央線」(上條恒彦