唇寒し評論家

議論(討論)は、民主主義下の意思決定プロセスにおける直裁的手段であると言える。
科学の世界においては、このことに加えて、科学的思考という暗黙知(了解事項)が存在し、議論の基盤を為している。
その他にもいろいろな仕掛けが施されているのであろうけれども、基本的に上記2つの柱が機能することで、科学の公正性の相当部分は確保されていくものと言えよう。
そうした設計思想に対して、現実がどれだけその思想の実現を果たしているのかといった視点で現実の事象を眺めた場合、例えば、身近な(この国の)科学を巡る議論を垣間見てみれば、現実のありようが判断できる。すなわち、科学の健全性である。
身近の議論て、どこよ?といった反応が即座に返ってきそうではあるが、いちいちそこまで提示してあげなければわからないような者への過剰サービスはこの際差し控えようか。社会へのアンテナを持っていれば、いろいろなことが想像できるじゃないか。


次に、そうした対象物にターゲットを定めた上で、具体的な健全性や公正性の測り方の手ほどきについてである。
まず、科学の側からの視点として、箸にも棒にもかからない論外のポイントとしては、エビデンスやデータの改変・捏造といったことが挙げられる。そこには、恣意的悪意が介在している。どちらかといえば、人間のルールを踏み外していると言ってもよいのかしれない。したがって、いずれにしても、論外のさらに外。
次に、改変・捏造とまでは明らかに言えないまでも、エビデンスやデータの恣意的編集。自分に都合の良い証拠だけを摘み食いするアレである。常習者の事例もよく知られているといえばいえる。
さらに、微妙なパタンとして、そうした手続きが全体的に弛緩しているもの。関係者たちは真面目にやろうとしているのかもしれないけれども、全体として手抜き、あるいは、非力感が否めない。未熟者奴といわれるパタン。通常はそういった基本動作を貫徹できるための基礎体力を大学で習熟するわけであるが、そうしたルートを経ても全うできない人間もなかには存在せざるを得ない。そういったやり取りは往々にしてあるので、一番目につきやすいパタンかもしれない。
一方、科学の世界以外との関係性も含めて考えれば、露骨に公正性を歪めるポイントとしては、政治的圧力。これも論外といえば論外なのだが、当事者はその事犯の重要性にあまり気付いていない節があったりする。政治の側から律すべき倫理規範なのかもしれない。
次に、これの傍流として、政治的圧力と露骨に認め難いものの、陰で恣意的に排除しているサイレント・プレッシャーのかたちもあり得る。役人が得意な分野。
それから、利益相反といった観点で、利害関係者の排除が不十分である場合もよくあるパタン。
要すれば、彼ら評価者が様々な意味で腐敗していないかどうか吟味をする必要がある。
その他に、全体のシステム設計をみての透明性や意見聴取範囲の広さといった点にも着目することが肝要であろう。


どうだろうか。
こうした視点に照らして実際の議論を眺めてみれば、「専門家じゃないんだから専門的な指摘が出来なくて当たり前」であるとか「意思決定自体に科学の視点は不必要」などといった暴論は、論外であることがよく分かる。誰がそんなことを言っているって?いちいちそこまで提示してあげる過剰サービスはこの際差し控えようか。推して知るべし。


本日の音楽♪
「LA-LA-LA LOVE SONG」(久保田利伸