一瞬の風か、強く吹いている風か

事業仕分けに対するアカデミアからの反撥の声は未だに引きも切らない。
しかし、科学技術は重要だ、費用対効果はもっと長期的な視点で、といった反論は間違ってはいないだろうけれども、観衆の心をあまり打ちそうにない。のっぺりした話ばかりでは大衆はすぐに厭きてしまうのだ。
あるいは、敢えてリンクは張らないが、中には、悪のりをして我田引水な事業復活を記者会見まで開いて要請した某大の教授連がいて、ある政治家OBに「TO大を笠に着て」と厳しく窘められていた。
総じてアカデミアに対する国民の風は、残念ながらアカデミアの真剣具合に正比例することなく、暖かくはないものと自覚すべきなのだろう。
国民の関心がどちらかというと目先のお財布の中身にだけ向いている中で、もう少し相手の一歩先を行く議論を仕掛けたいところである。
そして、ここに来て漸く冷徹な視線も垣間見られるようになってきた。
科学技術と国家の関係という捉まえ方の視点を提示したのは、元京都大学基礎物理学研究所所長の佐藤文隆甲南大教授である。

(略)
世界を見ると、科学と税金の関係を劇的に表現して見せたのは米国での「SSC」(超伝導超コライダー)建設中止事件です。レーガン大統領が1988年、両脇にノーベル賞を受賞した素粒子物理学者たちをずらり並べた記者会見で、大々的に発表した計画です。既に20%程度建設が進んでいたのが政権交代で1993年に中止となりました。2,000人の首をきり、投入済みの20億ドルに加え、加速器用のトンネルを埋め戻すのにも巨額な費用をかけました。
当然、物理学者たちの猛反発があり、私自身も日本人なのにカッカカッカしたことを覚えています。ただ、いろいろ考えるうちに、SSCは政争の具にされて葬られたというのは皮相な見方だと考えるようになりました。この過程を書いたのが「科学と幸福」(岩波書店、1995年)という本ですが、冷戦体制の崩壊という国際情勢の大きな流れが背景にあり、国民の見方の変化を政治家が敏感に察知したということなのです。ノーベル賞受賞者数の増大、国家のプレステージ向上、人類のフロンティア開拓といった政府の呼びかけに国民は感動しなくなったという変化です。「巨大加速器」か「健康保険制度」のどちらが大事か、とクリントン民主党政権が国民に問うことは十分あり得たということです。
(略)


なるほど、学者ならばこういう発言をせねば。
どちらが優れているということではないが、上記学者先生の発言は「国民目線」のものではない。寧ろ「国家目線」と云えばよいだろうか。
今回の仕分け作業の考察の中で、透明性が確保されて、国民の関心が高まって、説明責任の機会が果たされて、良かったね良かったよという声が多かったが(※ところで、説明責任が果たされる以上、それを聴いた側はインフォームドコンセントの意思表示の責務が生じると思うのだが、そうした指摘はどこからも聞こえてこない。その件はいずれまたの機会に論じたい。)、それは現政権(ほうら、リーダーが猫目小僧に見えてくる、見えてくる…)が謂わば金看板として掲げる国民目線を正に現実化していることを評価しているのであろう。サーカス議論も少なくない中で、多くの論調が真摯な意味でこれを評価し、そのように考察をしている。
而るに、繰り返すが、国民目線よりも国家目線が優れているとは云わないまでも、国民目線万能論(優先論)には大いに違和感を覚える。
例えば、国民主権が国民目線によって実現されるという錯覚を持った人間が多くいやしまいか。あるいは、国家目線という大上段的な考え方が、一人一人の人権を蔑ろにするという(要すれば「全体主義」に過ぎるとの)アレルギーを持つ人は、本当にそのことが国家国民にとっての真のアレルゲンなのだろうか。
こうした科学技術と国家の関係などという問題は国政の場で議論すべきであることは論を俟たないものの、では、そうした戦略や中長期展望というフレームワークパースペクティブが仮に出来上がったとした場合、その上での国民目線とは何なのだろうか、あるいは、仮に事業仕分けがあり得るものとしてその位置付けはどう変わるのだろうか。
よくよく考えてみたいアジェンダではある。


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「そばかす」(中川翔子