亡霊たちの宴

BADSCIENCEもホットな話題について行こうという意図だろうか。スカンジナビア半島にも悪気のないゾンビーズが集っているのだろうか。
ガーディアン紙より。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/dec/12/bad-science-goldacre-climate-change#start-of-comments

◆気候変動?うーん、その頃までには僕らはもう死んじゃっているだろうし…
 コペンハーゲンでの会議が凡庸な結果に終わってしまうだろうことに対して、科学者たちの圧倒的大多数の声があるというのに、どうしてこの国の凡そ半数の人々は、この人間が齎した気候変動という事実を信じようとはしないのだろうか?
 確かに電子メール漏洩(それに関しては今更言及するつもりはない)の話が先行したことはある。まず第1に、我々は明らかに感情的な側面を抱えている。特に、我々がかなりの年をとっているとか、もうすぐ死んでしまうような年齢であった場合には、将来のずっと先の話である悪い結果を過小評価してしまう傾向はあろう。得てして我々は、したくない何かをしなければならないことを示唆するような証拠を見過ごしてしまいがちであり、それ故に、アルコールが体によいといった話を永続的に訴えながら、政策イニシアティブにおいてこうした問題には全く正面から取り組もうとはしないのである。つまり、正しい行いをすべきだと人々が話すことを十分認識している時に、個々人の行いを変えることに重要な役割があるとの示唆をするだけでは不十分と言わざるを得ないのである。より良い行動をより簡単に行うためには、政策転換が必要なのであって、例えば、お菓子を食べないように子供たちに口で諭すよりも、学校内で新鮮な果物を販売する方がよほど効果的であることは誰にでも理解できよう。
 当然、気候分野の科学は難しいことから、その理解は容易ではない。しかしながら、あなたが1時間でMMR自閉症についての必要な知識を最低限身に付ける議論というものも実際に可能なのである。疫学や他の処方に関する実験的技術、それらがどのように歪められて伝えられたか、キーポイントになる研究の結果や確からしさ、弱点などについても、同様である。比較的表面的な理解のため、気候変動の知識をさらに習得するにはあなたの人生のさらに2日間を必要とするかもしれない。あなたに興味があるのならば、私はIPCCウェブサイト自体を推薦したい。そこには、政策立案者のための3つのポイント概要が記述されており、まじめな大衆科学の全く良い側面がそこには現れている。
 我々はまた、政府が科学を歪めるということも知っていることから、科学に関する政府の見解を信頼していない。薬害関連の証拠は政府の趣味ではないことから、大臣がデイビッド・ナット教授を頷かせようとする光景を何度か目にしただろう。瑕疵のある数字、欠落データへの疑惑、偽りの議論でもって、政府が警察によるDNA保持であるとか、著作権に関する彼らのスタンスを正当化するために、馬鹿馬鹿しいレポートを振り回すのを目にしてきた。我々は証拠に基づく方針がショーウィンドーの飾りであるということを知っている。そして、現在、我々が気候科学に関して彼らを信じたいと望むとき、世界的な恐怖を和らげるために世界的なGDPのわずかな1%の帳尻を正当化することに疑いの眼差しを向けている。
 無論それから、メディアは目新しいものに価値を見出し、その上、「確立しようとする」見解を「既に確立した」見解と混同することが往々にしてあることから、彼らは愚かな他人と反対のことをしようする人間に特権を与えようとする。そして、ダビデゴリアテの闘いのように威張りくさった人を非難する傾向にある。
 しかし、こうした全ての鍵は、気候変動に反対する批判者たちが繰り返し行う他愛ないいたずらのようなものでしかないのも事実である。私は、自分が気候変動の偉大なる専門家でないと断言できることが嬉しい。何故ならば、私は少しばかりのことを知っていて、世界中のほとんどあらゆる科学者(具体的事例があれば歓迎するが)が巨大な世界的陰謀に巻き込まれてはいなかったという事実を知っているからである。そのようなものすべてよりも、あなたがエイズ否定論、ホメオパシー、反予防接種といった陰謀理論家の中に認めるものと同様の修辞的テーマを、気候変動において愚かにも再び現出する中で見出すことができよう。
 これらの全てを支配しているのが、「ゾンビ議論」である。それは、どんなに何度却下されようとも、再び沸き上がり生き返る永遠の議論である。「ホメオパシーは、私には効果があったのだ。」といったようなゾンビ議論は生き残り、そうした議論は通常の基準で生きたり死んだりは決してしないことから、起き上がり、生きかえり、すべての反証に抵抗しようとする不滅のものなのだ。そうしたゾンビ議論の巨大なリストが、realclimate.orgにある。そうした巨大なリストは至る所にある。それらリスト間の内容にさしたる違いはない。
 「CO2は重要な温室効果ガスではない。」「地球温暖化は太陽によって確認できる。」「1940年代は寒冷期であったか?」といった退屈な議論があなたの目の前に沸き上がってくる。「それはですね…」あなたが答える。「あなたが前回この指摘をしてから、私は検証作業を行い、1940年代に、当時の工業汚染と火山の噴火によって作られた異なる種類のたくさんの煤塵が大気中に放出されたことによって、太陽光線を遮ったことが判明されていました。つまりとっくの昔にそんなことは分かっていたということなのです。」
 彼らもそれを知っていた。そして、彼らはあなたがそのことを発見するだろうということを知っていたことも知っていて、あなたもまた彼らがそのことを知っていることを知っている。あなたが疑問に思えば、彼らはとにかくさらに持論を主張をして、あなたの貴重な時間を浪費して、過去に反論があろうがあなたが反論可能であろうが、故意にそれ以上に馬鹿馬鹿しい話を持ち出してきて、虚しい時間を浪費していくのである。だが、それは単なる「無礼」というものだろう。


最後の台詞、rudeを「無礼」と訳してみたが、ふだんの家主のスタンスからして、もう少し人格否定的な過激用語が出てくるのかしらとも思った。
さて。議論自体には事前の査読といったプロセスがないものだから、過去に繰り返された議論を繰り返し持ち出してオリジナルを装おうとしても、おとがめが生じにくい。場合によっては議論をふっかけられた方がオリジナルの挙証作業をやらさられたりして、それは正直大変に馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい気持ちも分からないではないが、いきなり門前払いというものも議論という手法の否定に繋がりかねないので、少しは耳を貸してあげないといけない。繰り返すが、だがそれが煩わしい。
より大きな問題は、そうした排除したはずの議論が家主の指摘するように、(はじいたことで)科学の畑の栄養分を吸収している筈はないと思っていたのに、蘇り、どこかからか養分をちゅうちゅうと吸って、成長して、再び姿を現すことであろう。放浪の最中に仲間にした多くの支持者をぶらさげながら凱旋帰還をしたりすると、余計に厄介に違いない。
こうした原因は、そういうゾンビーに栄養分を与えるお節介でイネイブラーな勘違い人間が存在する証左でもあるが、人間十人十色百人百色、そうした排除もまったく簡単なことではない。
極論をすれば、少しばかりの基礎知識を身に付けても、理解は増進しない(しかし、基礎知識なくして、理解も生まれ難い)。
ぐるぐるぐるぐると親の因果は仔に巡り、結局のところ、鶏と卵の祖先を追いかけていって途中で何が何やら途方に暮れてしまうのである。


本日の音楽♪
「the perfect kiss」(marcelo resende)