遙か遠い国で

あまり話題に上がらなかったが(日本では尚のこと)、ある一人の政治家(そして科学者)の死を伝える海外電記事である。

◆マント・シャバララ・ンシマング博士が死去(69歳)。南アフリカの前厚生大臣で、HIVエイズを引き起こす原因であることを否定した。
彼女は医者がエイズ治療に抗レトロウイルス薬を使うのは良くないことだと考え、そのことによって国内で30万人以上の不必要な死亡の原因を齎した。

 マント博士は南アフリカの前厚生大臣エイズ否定論を唱え、エイズの大流行により国内で30万人以上の不必要な死亡の原因を齎したが、2007年に彼女自身肝移植を行い、その後経過が思わしくなく、今週水曜日にヨハネスバーグの病院で死亡した。69歳だった。報道によれば、彼女の献体は生体移植用に供されることが示唆されている。
 彼女の親友や特別の擁護者であるターボ・ムベキ前大統領のように、マント博士はHIVエイズを引き起こすとは考えず、病気を治療するために抗レトロウイルス薬を使うのは好ましくないと考えていた。その代わりに、患者に果物、野菜、ハーブの混合物を与えるよう推奨し、そうしたことから彼女は「ビート博士」とか「ニンニク博士」と国際的に嘲笑される栄誉を勝ち取っていた。
 前アフリカ・エイズ国連使節のステファン・ルイス博士は、2006年のカナダのバンクーバーでの演説において、そうした彼女たちの方針が「問題のある州よりも少数の過激派だけに利益を齎す発言だ」として、ムベキとマント博士のエイズ方針を鋭く批判した。トリートメント・アクション・キャンペーンは、彼女を「殺人者」と呼び、国内人口5千万人のうち570万人のHIV陽性の人々に処方提供することを彼女が拒絶することに反対する法廷闘争を立ち上げた。
 政府が幼児へのウイルス伝搬を防ぐために抗レトロウイルス薬を妊婦に提供することを強制したこの訴訟事件で、活動家達は2002年に大きな勝利を得た。2003年のもう一つの決定は、政府に最先端のエイズ治療薬を人々に提供することを強制するものであった。
 彼女の批判者も、彼女が農村地帯で公衆医療を改善し、薬価改善を含む明確な功績があったことを認めるものではあった。彼女はまた、新しく訓練された医者と看護婦の海外渡航を停止させようとするとともに、世界的な反タバコ条約の作成においてキーマンとなる役割を演じた。
 マントバザーノ・”マント”・エドミイ・シャバララは、1940年10月9日にダーバン近郊のエムフュームという村で生まれた。1962年にフォートヘアで学士号を修得後、白人の少数党内閣に反対する活動団体のリーダーに選び出されたために、亡命を強いられた28人の学生のうちの1人になった。その亡命の期間中に、彼女はムベキとの生涯の契約を交わしたとされる。ムベキは、度重なる要請にもかかわらず、一貫して追放された彼女の支援を行った。
 彼女は1969年に第一レニングラード医療学校を卒業後、1980年にベルギーのアントワープ大学から公衆衛生で修士号を取得し、アパルトヘイトの崩壊後、1990年に南アフリカに戻る前に、ボツワナタンザニアの病院で働いていた。
 彼女は1994年に議会に初当選し、1996年に法務大臣、1999年に厚生大臣にそれぞれ任命された。
 ムベキは、2008年9月にアフリカ民族会議によって強制的に退任させられた。彼の後継者であるクガレマ・モトランセがまもなく就任した際に、彼はマント博士を大統領府の大臣へとポストを動かした。本年、ジェイコブズマが大統領に選ばれた際には、彼は彼女を内閣の一員には加えなかった。今月始めに、彼はHIV薬が国内でより広く利用できるようにすると言明した。
 彼女はアフリカ民族会議の元会計係であるメンディ・ンシマングと結婚し、2人の娘がいた。


理系、文系の分け方が好ましいとは到底思わないが、仮に科学者の経験がある政治家がいたとして、その人の強味は何かといえば、科学的思考ができることだろうと誰でも思うに違いない。
そして、それは、一定のルールに則って真理を追求するその真摯な態度にあるのであり、かつ、唯一の仮説だけに拘らない(懐疑を棄てない)その柔軟な修正主義にあるのだろうと思う。
そういう意味において、マニフェストの履行だけに拘泥しない姿勢は修正主義の賜のようでもあり、国民に対する説明の中で、論理的挙証が省略されている状況は科学者らしからぬ姿勢と言えるものかもしれない(言わずもがなかもしれないが、この国の話である)。
前評判とは異なり、科学者らしいカラーが十分に滲み出ているチームではないということだけは確からしい。


本日の音楽♪
さくらそう(雪どけ水は冷たくて)」(NSP)