グローバリゼーションは想像以上に七面倒臭いのである

いつかR.ドーキンズ博士が英国ではイスラム教徒の増加が脱進化論に拍車をかけているといったコメントを残すインタビュー記事があった(本欄で紹介済)。
そこで、ガーディアン紙にこのような記事があった。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2009/nov/23/religion-islam-science

◆科学と宗教は決して相容れない
イスラム教と科学理論は異なる領域を占有しあっていることから、両者は別々に隔離させておくべきである。この二つが接触しあっても、両者の価値を下げるだけのことだ。
(ライアザット・バット記)

問題:イスラム教は、科学と足並みを揃えることができるのだろうか?

 2009年も終わりに近づき、今年もたった5週間ほどを残すに至った。そうした僅かな時間の中で、科学と宗教が互換性を持つかどうかという質問が持ち上がった。この難問に対して、学者、聖職者、科学者及び研究者の間には現実逃避の傾向が多く散見され、ダーウィンと彼の偉大な功績(種の起源)を祝う記念日に至っても、その問題の多くは持ち越されたままであった。2010年には、我々のこうした関心とエネルギーを、より実り多く、回り道でない議論に費やすことを望みたいものである。
 私が本論稿において宗教的事項に関するこの仕事を引き受けるまで、誰かがイスラム教と科学について同列で論じ合うことなど私は決して思いつかなかった。人は、事実に基づき、信念に基づく。それは、主観であり、経験である。この2年の間、どうしてイスラム教や他の宗教において科学との互換性の必要性が生じないのか、あるいは、宗教の支持者たちがそういった考えを推し進める必要性を生じないのか、私にはどうしても分からなかった。ファッションなのか?隣人に追従するだけことなのか?イスラム教が非道徳的な大きな問題との互換性を持つことを世界中に明らかにしようという試み(つまり、科学、民主主義及び人権のモンダイ)なのか?まるで聖書が科学的発見についての先見の明があったかのように、個人が科学的な事実を疑ったり、科学を説明するために宗教を使ったりといった科学と宗教の重なりがあった場合には、常にとは言わないが、専らイスラム教と科学は別々に隔離しておかなければならないということなのだ。
 宗教的なフィルタで科学を見てしまう危険性は、ハッサン・アリ・エル・ナジャーが記した本稿で既に明白であろう。彼は、コーランがビッグバンから人種の膚の色まですべてを予知していたのだと書いていたりする。
 イスラムコミュニティの中ではエル・ナジャーよりも有名なザキール・ナイクという学者による記事でも、類似したアプローチが引用されている。彼は科学的発見を証明するために、何度も聖書を引用しつつ、如何にコーランが驚くべき科学的な正確さで記述されているかを結論付けている。私には彼がハイファイブをしたり、あるいは、ほっとため息をついていたりすることが容易に想像できる。神聖な本には最高の科学があるとするウィリアム・キャンベルを非難・排除するネイクの興味深い、少しばかり恐ろしいビデオもおまけに付け加えておこうか。しかしながら、こうした事例は、科学がイスラム教と互換性を持つということを、そして、そのイスラム教は科学の起源となって、それの出現を許したことの証明を人々が如何に好きであるのかということを示すものでもある。
 イスラム教と科学の足並みを揃えることの固有の困難さは、教義自身に起因する。イスラム教は、神が万物の創成者で、こともあろうに、万物つまりすべてのものが創成者に由来するのだという。イスラム教徒は、神聖なるコーランを神の言葉であると信じている。それが信頼の基盤で、すべてがこのことから始まるならば、ネイクとエル・ナジャールが行ったように、あなたの行いはコーランや、科学が神の干渉の結果であると証明するハディースの中から適当な詩句を見つけることに相当するのである。さもなければ、その行いは、冒涜や異教と看做される。
 進化会議の中で、イスラム科学者と研究者が、各々の立場において、彼らの宗教的なアイデンティティと彼らの本職の間には矛盾がなかったと言及したことを耳にした。この2つが別々に隔離されたために、何も除外しされなかった。エジプトとレバノンの高校生が彼らの宗教的な信条に基づき、進化の証拠を受け入れなかったという話を最近のセッションで聞いただけで、両者が相容れないことは言うまでもなく、少なからず落胆させられることではある。宗教が関与してはならない多くの範囲があり、科学はその中の一つなのである。私がアレキサンドリアにいたとき一人の科学者がこう考察した。「ブタと決して闘ってはいけない。あなたは汚れるだけであるが、ブタは汚れることを好むのだ。」と。彼は霊魂創造論者との議論について話していたのだが、しかしながら、ここでもまた、その格言があてはまるように私には思えるのである。

今はまだ極右や極左や極端にあちらの世界に行ってしまった基督教福音主義に目配りだけしていればいいのかもしれないが、いつかはこの極東の国でも国民自身がイスラム過激主義の洗礼に身をつまされる日が来るのだろうか。大部分の日本人が自分には関係ないやと思っているのだろうが、現実、日本国籍を有した隣人が深刻にその件で悩まさていたりする事実認識ギャップが想定されるわけであって、想像するだに、悩ましいと言えば悩ましい。もどかしいと言えばもどかしい。どうでもいいじゃないか、と思えば、そうとも思える。


本日の音楽♪
「N.Y.CITY MARATHON 」(浜田金吾