小さい頃にサンタクロースが家にやってきたことは一度もなかった。家に煙突がなかったせいだと自分で無理矢理得心をしていた。

党首の正体が猫目小僧であったことが世間に今更ながらバレつつあるこの年の瀬において(映像で拝見する度にあれは本当に「猫」のまなこに見えてくる、ほら、見えてくる見えてくる…)、如何せん対抗馬が出てこないと盛り上がらないぞと、物足りなさを感じる選挙民も多かろうとは思う。
師も走るというこのクソ(失礼!)忙しい時期に、そんなことを考えている諸兄は、はっきり言って暇人である。
米国では、実力や真価の程は横にさて置いて、そういう有名対抗馬が至って元気である。何よりそういう対抗馬の存在が暇人には羨ましい。
不景気など屁(度々失礼!)でもない。ましてや、医療制度改革やアフガン派遣増兵やCOPなどは、一家言も百家言も声帯の続く限り表情の続く限り舞台の上で考え抜いた台詞を発しなければなるまいと只只管強く強く思う。
そうしたダイナミックで分かり易い構図が暇人には殊更羨ましい。
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2009/12/07/sarah-palin-is-coming-to-town/?ref=opinion

(仮訳)
◆サラが町にやって来る
(スタンリー・フィッシュ記)
 先週マンハッタンのストランド書店に行ったとき、私は、「お客様案内係」のバッヂをつけた明るそうな若い女性の元へとまっすぐ向かい、サラ・ペイリンの伝記本「Going Rogue:An American Life」のある店内区画を教えてくれるよう尋ねたのである。彼女は、著者が血で記したサインのある「我が闘争」のコピーをお願いされたかのような目つきで私を凝視し、そして、近所の「バーンズ&ノーブル」(※全米規模のチェーンを持つ書店)の方角を指し示した。そこに行って、疑わしい味覚と感受性しか持たない一介の読者は、漸く望んだものを探し出すことができた。
 数日後、私は、あらゆる集団グループには天使と悪魔の公式リストがあるのだと優秀な学者が主張する政治学・法学理論に関するセミナーに出席をした。例えば、彼は、部屋の中にはごく少数のサラ・ペイリンファンしか居そうにないという事実(彼はそれに絶大な自信を持っている)を提供した。その頃、私はペイリンの本を読み始めたところであり、私自身がサポーターという意味での彼女のファンではないと改めて自覚をする一方で、私はその本が非常に魅力的でよくできたものであることを実感したのだった。
 私のこの本に対する評価は、本の内容の正確さとは全く無関係なものである。一部の通信社にはあらゆる箇所を詳細に調べる「事実調査員」と呼ばれる者がいて、彼らは、伝記内容や過去の事実に関する主張が最終的に間違いないものと断定できるまで確認した審査内容であった場合に、それを間違いない適切なものとみなす。だが、「Going Rogue」は自叙伝である。そして、自叙伝作者が彼らは真実を言っているのだと主張する以上、このジャンルにおける真実は、彼ら自身についての事実ということであり、彼らがそういった人間であるということなのである。そして、彼らが嘘を騙っているとか利己的であるとか(ペイリンがそのどちらでもあると言っているわけではない)といった場合でも、彼らは必然的にその真実を肉づけしていくしかないのである。私が前回のコラムで論評したように、自叙伝作者は、自らのプロジェクトを誠実に勤め上げようと、事実のみならず、彼ら自身をも描写しようとするものであることから、決して嘘は吐いていないのだ。
 そこで、尋ねるべき質問は、(1) ペイリンは読者に対して彼女がそういう人であるということを伝えることに成功したか?、(2) それは彼女が望む巧妙な方法であったか?ということである。要するに、その本は良い自叙伝的書物であったのかどうか?私はともに「イエス」と答えたい。
 第一に、文学的である。その本は、ペイリンが共和党の副大統領候補としてジョン・マケインから誘われ、呼び出しを受けたたった一度のその瞬間に、その建物が構築されていったことを示す。6頁にわたって彼女はアラスカ州での素晴らしい家庭生活について語っており、最初にその電話を受けたとき、(少なくとも報告では)我々と同じくらいに彼女自身が驚いていた。その電話が鳴った際に、彼女はそれがイラクに兵士として駐在している自分の息子からの電話かもしれないと思った。だが、「それは私が歴史を変えるためのお手伝いをしたいかどうかを尋ねるジョン・マケイン上院議員からのものでした。」
 そして、それは200頁全体に響き渡る。ワシリア、高校、バスケットボール、大学、結婚、子供たち、ダウン症候群、アラスカ政治、環境問題、娘の妊娠について、万事この調子で物語を聞かせる。208頁にある物語にジョン・マケインを再び登場させ、大統領選とその余波、特に彼女が任期満了前に知事職を辞めるという彼女の決定において、ペイリンは出ずっぱりである。エピローグ(下巻200頁)において、その有名な勧誘がブックエンドとして再び援用される。「私がジョン・マケインからの電話を受けたのは1年前のちょうど今週でした。」
 逆に、こうした呼び出しに対する小美しくも淡々とした表現での言及によって、彼女が劇的な瞬間というものをさほど重視していないことがわかる。それは、クライマックスとしてではなく、彼女の家族、アラスカの繁栄、エネルギー政策といったペイリンの不変の懸念に対する中断といった形で示される。(彼女が賞賛をするヒラリー・クリントンのように我々が連想するそういった理屈っぽくて細かな話をするのが彼女は大好きである。)
 実際、我々がもっと前面に押し出されるだろうと思っていた出来事が無視されたり、エピソードからは外されたりしているのがこの本の物語の特徴でもある。ペイリンは、チケットを受け取るように云うマケインの誘いを受け入れるべく、強力で、しかも衝撃的なスピーチで、国民に対して自己紹介をした。それは、第1章の半分(「私はスピーチをしました。」)を占め、第2章において、一介の市長であったペイリンが次の段階に何をすべきか迷っていることを記述している。そして、第3章の中の4つのパラグラフによって、補足的に、彼女が知事に立候補することを決心させた理由を知ることができる(いつ、どのようにしてそれが起きたのか?)。その後の議論を受けた唯一の出来事として、彼女の辞任が取り上げられている。それが彼女の完璧主義において反省させられる行為であったことから、そして、彼女が正当な理由に基づきそのような確信を持たざるを得なかった(彼女はいつも結局そう考える)ことから、それは彼女にとって重要なことであった。
 辞任は、彼女の責任感に基づく道徳的な行為であった。副大統領への立候補は、正に彼女の身に起こったことであり、彼女の報告は「私が、この夏と、秋の、休暇中に、行ったこと」を押し広げたエッセイのようにも読みとれる。多くの政治家にとって、家庭生活は長時間の公共奉仕のための時間に押し挟まれている。ペイリンは、彼女にとってそれが裏返しのことであるということを皆に知らしめたいと思っていた。政治的成功は、予告できない事故のようなものである。妻として、母として、市民としての成功がすべてなのだと彼女は言う。
 私は、こうしたことの全てを信じているのか?それは重要なことではない。重要なことは、彼女が行ったこと、そして、彼女の読者が本物の声を聞いているのを感じるということである。私は、その声が疑う余地なく本物であると考える。(そう、私はこの本がリン・ヴィンセントの「援助」で書かれたことを知っている。しかし、ごく最近の私の本も含めて多くの本は編集者によってまとめられているのだ。)曰く、民俗的知恵、地域の誇り、常識、レトリック(それ自身が修辞的な文彩)に対する不信、愛国心、本能的な(教義的でない)信心といったものこそが、アメリカの地方の田舎町の声なのである。私に起きた大きな出来事のいくつかがここにあるのだけれども、それらは私の人生を偉大な真のアメリカ人にすることではなかった。(「アメリカ人の生活は驚異。」)曰く、あなたは家族や自由、自然の素晴らしさが我々を支えることだと考える私に同意しませんか?曰く、次の機会には私に投票して下さい。幼い少女が空を飛びたいと考え、それをためして、ひざをすりむいて、自覚して、「歩き続ける」ために、政治家の声がある、と。
 結局のところ、忍耐という、敗北主義に陥ることなく敗北を吸収する能力こそがペイリンの性格の鍵なのであろう。それが彼女の行動力とセンスある発言を産み出し、走り続けるという物理的な行為が、本を通じて、喜びと実生活をもたらすとの比喩になる。マケイン・キャンペーンにおける彼女の運転手は、「go rogue(悪役になる)」の台本から外れるもう一つの機会を恐れたが為に、彼女を走らせようとはしなかった(思うに、マスコミ向けのポーズとしてもそれは間違いであった)。
 しかし、彼女が行動し(そして失敗した、だからどうしたというのか?)、そして、選挙がすっかり終ってしまって、彼女が副大統領の機会を失って、知事職を辞めたとき、彼女は長期的視野に基づいて、心の中で彼女が年代順に記録した盛り沢山な行事をリハーサルしたのである。彼女は走り、そして望みを成し遂げる。「我々は驚くべき日々を過ごしてきました。そして、本当に、不満を言うべきことは何一つありませんでした。私は、そのような自由、そのような希望、我々の国に向けたそのような感謝、絶望的ではない全ての場所を感じるのです。」
 メッセージは常に明瞭である。アメリカは止められない。私は止められない。つまずいても倒れても、常に起き上がり、私は再び走り出す。彼女の政敵、特にロナルド・レーガンが選任される前に彼を見捨てた人々は、よくよくメモをとっておく必要がありそうだ。あなたが何処に住んでいようが、よく気をつけておく必要もありそうだ。あなたの町にも、サラ・ペイリンがやって来るのだから。<<


畏るべし、ペイリン。
このバイタリティ、このメンタリティ。
無知だの宗教的に偏っているだの、いつでも簡単にあしらえると思っていると、その単純さ(単純明快というべきかしら、兎にも角にも根太いのだ)に足下を掬われかねない、という教訓を秘めている。
根太い人間への説得は極めて困難である。しかし、それ以上に他者が念頭に置くべきは、太い根に絡め取られてしまうことである。
少し油断をしたり、怠けたりすると、考えることをやめて、つい単純なものに惹かれてしまう。というのが人間の性。それが絡め取られだと最初は気付かない。
休むに似たりと云われようが、下手な考えであっても、常に考えていることが人間であることの証左。思想や信条を無条件に受け入れると云うことは、人間的な敗北に近い行為であると云えよう。



本日の音楽♪
いつも愉しそうでない表情でこの愉しげな唄を歌うのが印象的でありました。
「お富さん」(春日八郎)