わたくしが新興宗教の教祖様に祀りたてられる日

高尚なテーマではある。なお、進化論とは関係ない。(わたくしは進化論マニアやアンチ創造論マニアではないので、念のため。ちなみに、ジャンルは異なるが、J・ルメートルは尊敬。)
NYタイムズ紙より。
http://tierneylab.blogs.nytimes.com/2009/11/19/how-will-religion-evolve/

(仮訳)
◆宗教はどのように進化していくのか?
(By JOHN TIERNEY)

 宗教に未来はあるのか。進化の行き止まりのようにも見えるところに居るのは、宗教に傾倒するアメリカ人なのか、それとも、不可知論(神性の認識は不可能だと唱えること)者のヨーロッパ人なのか。あるいは、双方ともある種の妥協に屈するのか。伝統的な神への信仰なくして宗教の社会的利益を提供する新しい「機関」に人々は集積していくのか。
 私の仲間であるニコラス・ウェードの魅力的な新刊(「Faith Instinct:宗教はどのように進化するのか、どうして不滅なのか」)を読んだ後に、私はこうした質問を想起したのだった。この本の中で、彼は、初期の社会において偉大な宗教が実現したがために、心の神経回路内での自然選択(淘汰)によって、人々には崇拝したいという遺伝的衝動が備わっているのだと主張する。(Week in Reviewでその要約を読むことができる。)
 仮にそのような宗教的な本能が存在するとした場合、西欧における教会礼拝の減少をどのように理解したらよいのだろうか。私自身は不可知論者として、社会がより豊かになり高次の教育を施されるにつれて、一般的にヨーロッパが世俗主義へと移行するその先駆けと同様の傾向を示すのではないかと考えていた。しかしながら、アメリカ合衆国がそういった傾向に向かうかどうかはわからない。この国では、依然として教会への礼拝の割合は高く、ニコラスは私に対し、宗教については長期的視点が必要だとも話していた。「戦争や貧困といった社会的状況によって、人々が実践する宗教的活動の範囲は増減するかもしれないが、宗教が完全に消えてしまうということはないだろう。」
 ヨーロッパ諸国の低い出生率(人口再生産水準以下)からみて、結局のところ、不可知論者と無神論者が進化の見地からみて駆逐され、他の社会から流入してくる別の信者人口と置き換えられていくのだと結論付けてしまう人もあるかもしれない。しかしながら、無信仰者が宗教の進化的利益を享受させてくれる新しい神を開発する可能性もなきにしもあらずである。
 「Faith Instinct」の中で、伝統的な信仰(例えば、イエス・キリストキリスト教を考え出した理由や、マホメットが本当は実在しなかったといったこととは、ほとんど無関係な学者の議論のようなこと)についての議論の後に、ニコラスは宗教のような、音楽評論が人々を共に引きつけ、感情をかきたて、精神を全く別の所に高見に究める点を指摘した。彼は、それを観察して、 こう記している。

   宗教をより近代的な形にバージョン変化させるための何らかの方法はあるのだろうか。3つの神論は何世紀も前に存在した社会条件を満たすために創られたものである。それらが長い間生き存えてきたという事実は、それらが永遠なるものを備えていることを意味するものではないが、それらは人々が何度も聞いては満足をする大好きなモーツァルトオペラの何曲かのようになったのである。しかし、音楽の世界は、モーツァルトにおいて完成を遂げたわけでもないのである。

 一部のモーツァルトファンは、最後の結論について異論を差し挟むかもしれないが、私はオペラと宗教を類似比較することに賛同したい。オペラに出掛けることは、私に教会に行くことを常に思い出させるものであった。厳粛な会衆は自分たちが持っている中で最高の服装をして、神聖な賛美歌と説教に耳を傾ける。しかし、人々の受け止め方は一様ではない。ニコラスが指摘するように、宗教は伝統的に人々を「健康や社会・文化・文明の生き残りといったより価値のある何かに対する自己の関心に向かって、インスパイアされた人々の深い動機」に働きかける多感覚的なコミュニティの経験(音楽、詩、ダンス)へと巻き込んだのである。
 尤も、最近は、多くの宗教においてそうした経験が薄らいでおり(ニコラスは、人々が踊るのを止めるために教会内に信者用ベンチ席が設けられているのだと指摘する)、そして、多くの人々が宗教によって影響されていないことも事実である。ニコラスは、こうしたことが、「3つの神論がずいぶん昔にその発展の範囲に達してしまい、人間社会のより複雑で組織化された知識の成長に較べて遅れをとっているため」だと指摘する。彼はこのように言う。

   宗教的行為は、たった一つの理由だけで進化した。それは、人間の社会の中で生き残るということである。宗教を管理する人々は、それを変えることはできないと過信してはいけない。逆に、宗教はDurkheimianな構造なのであって、社会のニーズに対してきわめてフレキシブルなものなのである。そして、宗教は社会の利益を促進すべきだという指示をする人々の神通力との間の潜在的な交渉によって形づくられるものなのである。多くの方法は、交渉者のインスピレーションに依存する。しかし、まずは、交渉が可能であると思うことが重要なのである。
   おそらく、宗教は第2の変化を探る必要があり、それは、固定した社会の宗教に対する移行のはけ口を求める点で同様のことである。この新しい構成においても、道徳や防御のためであるにせよ、宗教は一般目的のために人々を結びつけるあらゆる古い力を保持し続けている。それは、全ての感覚を刺激し、心を高揚させる。それは、自身を越える。そして、合理的な問い掛けを通じた人間の状態について学んだ人は誰でも感情や理由付けに等しい忠実な方法を見つけるのである。

 そのような製品変化は、どのように見えるのだろうか。私の心に浮かぶ一つの可能性は、「環境保全主義」であり、それはゴミの分別以上にエレガントである儀式で音楽以上もののである。「緑」の教会は、伝統的な宗教としての同じ道徳的な科目とコミュニティの価値を幾ばくか提供することができるだろう。そして、私は、「緑」への熱情が特に伝統的な宗教が下り坂にあるヨーロッパ諸国で一般大衆に敷衍していることは決して偶然の一致でないと思う。
 あなたは、新たな宗教の勃興や、あるいは、現行宗教の進化の可能性を確信するか。

環境保全」教ねえ。あな、怖ろしや。ショックで論評できないので、本日はここまで。


本日の音楽♪
「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」(エルトン・ジョン