これを読んでも、フルーツマイスターになれるわけではありません

学生時代の学舎にと或る若い教官がおられて、その教官は、文京区弥生町方面からわたくしの学ぶ学舎のある片田舎へと遠路遙々着任してこられた方で、よく言葉の端端に「T大では…」という修飾語を付加しておられた。そうした比較分類法的レトリックに対しては、その比較対象物が雲の上の存在で較べるべくもなく、敵愾心もライバル心もまるで持ち併せようがなかったがために、個人的に気に障ることは全くといってよいほどなかった。ある時、懇親会か何かの場で、その教官が相当に過激で偏狭な食生活論(超粗食主義)を一方的に声高に説え始めた。当時はその説の真贋を即座に吟味できなかったが、それ以上に、修論の裏に隠れた主義信条の凡そ人間臭い部分の方を察知してしまい、「ははあ。教官と雖も視野が蒼茫としているわけではないのだなあ。自分と同じだ。」と感じ入った。
その後、教官はその学舎とはまったく縁も所縁もない遙か遠い別の地方へと、日本列島を縦断するようなかたちで、再び赴任して行かれた。そして、それからまた十数年という歳月を経て、わたくしも異郷の地で暫くの間生活をする機会を与えられ、当該教官が身近におられることを偶然にそこの地元紙の掲載記事で知った。地元紙面の取り上げ方から、歳月に応じて教官の社会的ステイタスの昇華具合を類推できたが(わたくし自身も学生から肩書き或る社会人への変貌を曲がりなりにも遂げていたわけであるし)、その一方で、教官の彼の地での活動内容といえば、あの偏狭な食生活論をさらにエスカレートさせたような、社会主義的色彩を強く抱かせるような、今更共同体幻想でも武者小路でもあるまいにといったような、旧時代色が滲み出た実践活動の紹介記事であった。時代を経て、記者の目には新鮮に映ったのかもしれない。幸か不幸か社会経験の御陰で、ノンパリポリなわたくしでは既になかったので、主義信条的な拒絶感を理由に、敢えて交流機会には及ばなかった。わたくしも筋金入りの偏狭者ではあるが、それに輪をかけて偏狭な活動をなさっているその人生模様に思いを致して、人間というものはつくづくしぶとい生き物であるなあ、と我ながらまるで神様気取りで偉そうにも思ったことである。


http://www.latimes.com/news/nationworld/nation/la-sci-juice8-2009nov08,0,5809992,full.story

◆今、フルーツジュースの健康的なイメージが壊れかけようとしている!
炭酸飲料と比較しても、フルーツジュースはより多くのカロリーと糖分を含んでいます。特に子供に対しては、消費量の多さが肥満のリスクを増やすという証拠もあります。

 多くの人々にとっては、健康食品。それ以外の人々にとっては、名前を変えた単なる炭酸飲料。
 お医者、科学者、多くの公衆衛生の専門家たちは、米国民の胴回りをスリムにするための努力の一環として、高潔なフルーツジュースにその照準をあてようとしています。
 それは、カフェテリアや自動販売機でフルーツジュースを販売している学校にとって、とても厄介な問題になることでしょう。そして、ジュースを対象にすることが避けられないと主張しているジャンクフード税の主導者にとっても、それは不快なものになるでしょう。さらに、朝に子供たちの昼食用としてオレンジジュースや一口22オンスのスムージーやリンゴジュースのパックを持たせていることが何か良いことに違いないものだと信じ込んでいる消費者にとっても、それは混乱を誘うものになることでしょう。
 コークやペプシといった清涼飲料が世間で広く中傷され続けてきましたが、多くの専門家は、同じ肥満関連の健康リスクを脅かすものとして、100%フルーツジュースを「不都合な真実」として掲げているのでした。
 糖分を含む甘味飲物は、過大な働きを持つイメージがあるために、国民の総体的な体重増加の主な原因であって、そして、糖尿病、心臓病や癌といった疾病を増加させる付随的な要因であって、だからこそ、フルーツジュースは健康的なイメージを失いつつあるのだと、専門家が指摘をするのでした。
 「それは、砂糖水とほとんど同じものです。」ミネソタ大学で食を研究するチャールズ・ビリントン博士の発言です。現代の食生活において、「ジュースなんて全く必要ありませんよ。」
 1杯のジュースには、いくつかの果物に由来する糖分が集積しています。より小さな容器で消費される傾向はありますけれども、それは炭酸飲料よりも多くのカロリーを含んでいるのです。米国農務省によれば、コップ1杯のオレンジジュースは112カロリー、リンゴジュースは114カロリー、グレープジュースは152カロリーもあります。それに対して、同じ量のコークでは97カロリー、ペプシは100カロリーなのです。
 そして、清涼飲料水のように、ジュースはフルクトース(果糖)、つまり、食物を甘くするための最もポピュラーな単糖類が豊富に含まれています。
 UCデイビス校の科学者であるキンバー・スタナップ博士は、果糖は肝臓内でブドウ糖よりも容易に脂肪に変換しやすいことから、高容量の果糖の消費が心臓病とタイプ2の糖尿病のリスク因子を増やすことを明らかにしました。彼女の研究は、果糖の由来が炭酸飲料かフルーツジュースによるものかどうかは重要ではないことを示唆しています。
 「両者ともに、体重増加を等しく促進するでしょう。」と彼女は言います。そして、砂糖加糖飲料だけを悪者にする固定観念には困ったものだとも付け加えました。「実際にそれだけがただ一つの悪者なんでしょうか?」

◎多くの人々にとってのオレンジジュース

 ジュースは、人間の食生活の中で比較的最近、登場したものです。数千年の間、人々は果物を食べて、大部分は水を飲んできたのでした。
 しかし、1900年代の初めに、フロリダの柑橘の栽培者が、非常に大量のオレンジを収穫し、販売をし始めました。それから、神の出現を待ちました。ジュースの販売促進のための神です。
 「まるごとオレンジを食べるよりもジュースにして飲む方が、より多くのオレンジを消費するのです。」『スクイーズ −オレンジジュースについての知られざる事実−」の著者であるアリサ・ハミルトンが言います。
 米国陸軍は、オレンジジュースを商品化するために尽力しました。
 兵士が十分なビタミンC補給を確実なものにするために、それは当初は粉状のレモネードでしたが、「電池のような味がした」のだとハミルトンは言います。そこで、第二次世界大戦の間に、軍は科学者に濃縮したオレンジジュースの凍結方法に関する発明を指示したのでした。その特許は、ミニッツメイド社が段階的に権利取得をして、凍結ジュースの飲料缶は食品雑貨店に積み重ねられていきました。
 1950年代には、それが牛乳のような紙カートンで飲むことができるように販売されたことから、トロピカーナ社によって開発された低温殺菌技術は、オレンジジュースをさらに消費者に身近なものにしたのでした。
 テレビのフィットネス番組の先駆者であるジャック・ラランたち健康問題の専門家は、天然の医薬品としてフルーツジュースを喧伝し、数十年の広告宣伝によって、朝の食卓での位置付けを確固たるものにしたのでした。市場調査会社のNPDグループによると、今日の全米国民の凡そ半数の人が定期的にジュースを愛飲しているのだそうです。
 飲料製品協会は、多くの米国民がとても小さな生鮮食品を口にすることで、ジュースのビタミン、ミネラル、栄養価の補給を可能にしていることを強調します。
 業界団体の管理栄養士サラ・ワリーは、「朝食に1杯のフルーツジュースを追加するだけで、食生活において重要な要素になるものなのです。」と言います。
 けれども、科学者は、砂糖とカロリーを上回るようなベネフィットがあるのかどうか益々疑ってかかり始めています。「ジュース消費の上流側は、こういった議論さえしてはならないという下流側の人間に較べてその数は未だ微々たるものなのです。」UCサンフランシスコ校の小児科内分泌学者のロバート・ラスティグ博士が言いました。

◎体重増加要因

 フルーツジュースと炭酸飲料が体重増加の一因となるかどうかを厳密に比較した調査結果はこれまでになかったのですが、特に子供については、ジュースの消費量の増加が太りすぎ、あるいは太り気味リスクの増加につながるという証拠が示されています。
 最も早期の研究の1つは、1997年に北部ニューヨークで168人の就学前の年齢の子供たちを対象に調査したもので、1日につき少なくとも12オンスのジュースを飲んだ子供は、肥満度指数90パーセンタイルを上回る他の子供よりも、3.5倍も太りすぎ、あるいは太り気味の傾向にありました。
 971人の低収入の若者に関する2006年の研究論文では、現在太りすぎか、過去太りすぎだった子供たちにとって、ジュースの余分な一杯が彼らの体重増加に影響することが明らかになりました。
 しかし、ジュースと体重増加の関連性は、必ずしも明らかではありません。2008年にチェックした21の研究論文のうち6報はその関係性を支持するものでしたが、15報は関連性が見出されませんでした。
 実際に、数人の研究者によれば、フルーツジュースは、より健康的な食餌療法と低体重の維持に結びついていました。2歳〜11歳の子供たち3,618人を調べた2008年の報告では、1日に少なくとも6オンスのフルーツジュースを飲んだ子供がまったくジュースを飲まなかった子供よりも肥ってはおらずに、多くのビタミンとミネラルを消費していることが明らかになったのでした。


白黒はっきりつけたい欲求があるがために科学に頼る傾向があるのは事実だが、あにはからんや、科学は「万能」の公器とまでは言えないので、全てにおいての事象が白黒はっきりつけられているわけでない。寧ろ大切なことは、科学に頼りたいその理由として、科学の作法の中に、仮説、検証、論理、評価の不断のサイクルが存在していて、それを踏み外していないという約束事、つまり公理とか規範とかいったものが存在していることがより本質に近い重要なことである。結果の評価を行う前に、手順やアプローチの正当性をまず評価する作業が優先されるのもそのためである。
実際にそうは思うのだけれども、しかし、その大前提のさらに前にもう一つ考慮すべき視点があるようにも思えてならない。つまり、こうした単品食品の健康評価というのは、手順としては科学的手法(おそらく、この場合は、疫学的アプローチ)を踏襲しているにせよ、そうした研究計画の動機や計画自体の妥当性としてどうなのよ、という疑問が生じるのである。因果関係の厳密性の観点でも、実際の食生活の実践の観点でも、また、食育や食教育の観点でも、こうした単品食品の健康影響効果を調べるというアプローチが実学としての有用性に極端に乏しいことに心ある人々は気付いている筈だと思うのだが。アカデミアの世界だけが何か別の幻を追い続けているのか。はたまた、科学における不断の見直しの過程として、少量多品目消費という現代のダイエタリの基本原理に異議を唱えようとする意欲的意図の現れなのだろうか。
亡くなったわたくしの母は、度を超した飲み過ぎや食べ過ぎのことを「馬鹿食い」と言って子供達を厳しく叱っていたが、おそらくわたくしの母だけでなく、どこの世の中でも、飲み過ぎ食べ過ぎが健康によろしくないということは、親から子へと教え込んできた一般慣習があるのではないだろうか。それは対象物を限定しない。フルーツジュースしかり、プロバイオティクスしかり、である。水や醤油のADIを確認する現実的意義は分からないでもないが、ハンバーグやフライドポテトの影響度合いを計測する現実的意義はどこにあるのだろうか。
観測技術の精度がどんどん向上することによって、ナノオーダーでの量でもって、食と健康の因果関係を突き詰めることが可能になって、そうした僅かな隙間を埋めていこうというのが当世の学術界の流行なのだろうか。そうした場合、学術的価値というのは何をもって測るのであろうか。ティコ・ブラーエを標榜しているのか。環境ホルモンと同列視してしまうわたくしが偏向しているのだろうか。百歩譲って、どこかの研究者がひっそり体系的網羅的にそうした隙間を埋める作業を行っていたとしても、実学とか技術の方に役に立つバトンを渡すような話ではまるでないのでないか。

なお、冒頭記した件の教官について、運動論や主義信条は兎も角、そのお方が科学的プロセスを堅持しているのかどうかは、生憎、そこまで細かく行動を観察しているわけではないので、その点を論評しているものではない。


本日の音楽♪
「うちのお父さん」(南こうせつ