こどもは健やかに育てたいという考え方さえ一致しない場合の議論は、議論になるのかならないのか

Bad Science.今回はガーディアン紙のコラムの方から。テーマはエイズ否定論。批判対象が外連味たっぷりであるがために、或る意味、筆者の余裕が見て取れる。
http://www.guardian.co.uk/science/2009/oct/24/hiv-aids-link-denialist-spectator-events

(仮訳)
HIVエイズ:議論か拒絶か
 読者の皆さんが「議論を始めている」中に、多くの奇妙な話が乱れ飛んでいます。ちょうど3週前の「House of Numbers」にエイズ否定論者の記事が掲載されていたのを御存知でしょうか。それ以来、それは一部の人々に熱狂的に受け入れられました。ロンドン・レインダンス映画祭ではその映画を上映することを誇りに思うとの説明を加えつつ、シニアプロデューサーが15秒間隔でその映画をYouTubeでPRしました。
 この映画は、HIVエイズによって引起こされるのではなく、抗レトロウイルス薬、あるいは、貧困や麻薬ドラッグの使用がその原因なのであって、HIVウィルスはおそらく実在などせず、診断用ツールは役に立たないものだといったことを示唆する内容の映画です。そして、映画の中では、エイズは単に抗レトロウイルス薬を無関係な人々に広範囲に売りさばくために開発されたもっともらしい診断結果なのであって、処方箋も役に立たないとも言っています。
 しかし、この映画は、現在さらに新たな橋頭堡を築き上げようとしています。フレーザー・ネルソンという傍聴者の一人である政治エディタが、次週水曜日にこの映画を放映するイベントを宣伝すべく、このように主張しています。「HIVエイズの関連性を議論することは、合法的なことなのだろうか。相当手強く口やかましロビイストがどんな公正な議論でも嘆かわしいエイズ否定論者の言だと一様に看做しているように、これは非常に感情的な問題の1つになっている。こうした姿を見るにつけ、私はいつもひどく懐疑的な気持ちになるのだ。」
 もちろん、人々は懸念しています。国際的な抗議にもかかわらず、2000年から2005年までの間、南アフリカHIVエイズの原因ではなく、十分な抗レトロウイルス療法を使わないという或る確信に基づく方針が実行されました。2つの別々の調査研究において、この期間中、南アフリカでおよそ35万人もの人々が必要以上に死に至ったとの推計結果が示されました。
 また私達は、「論争を教える」ことがアメリカの霊魂創造論者の、そしてアンチワクチン接種運動家達の(奇妙なことながら、フレーザー・ネルソン氏も、彼らと関係しているようです)の常套手段であることを知っています。そして、彼らは、最新のメディアにおいて、2つの最も過激な図式の間では、疑問を挿入させることで真実を真ん中に寄せることが必勝法であるということも知っています。
 しかしながら、議論も有効です。フレーザー氏はどのような類いの催しを主宰しているのでしょうか。4名のパネラーが「最先端医学界の権威者」として呼ばれているのだそうです。その1人は、ノーマン・ファウラー卿です。彼は、「医学の権威者」ではありません。
 チャールズ・ゲシュクタ氏は、シカゴ大学のアフリカ歴史専門の教授ですので、したがって、「医学の権威者」ではありません。彼は、アフリカではエイズ流行は発生しておらず、単に貧困なだけであって、流行を信用してしまっているのは、人種主義と「西洋人の固定観念」のせいだと発言しています。実際、彼はそれを「おこらなかった疫病」と呼んで、2000年の南アフリカでのムベキ大統領の悪名高いエイズ助言パネリストの一人として名を連ねていました。
 ベヴァリー・グリフィン女史は、インペリアルカレッジの名誉教授で、HIVでなくウイルス学を専門にしています。1990年代にはHIVエイズを引き起こさないかもしれないと言及したために、彼女はウィルス迷信ウェブサイトにおいてよく引合いに出されます。彼女の意見は、今は変わったかもしれません。私は彼女に電子メールを送って、返事を待っているところです。
 最後に、ジョー・ソナベンド博士は、エイズ患者の人々の治療に大いに関わってきた、引退したアメリカのお医者さんです。彼は、多くのエイズ否定論者のコミュニティに招聘され、HIVエイズの関連性が証明されていなかったと発言しています。最近、彼はこの見解から距離を置いているようです。
 私は彼らが博学で堪能であると確信していますが、HIVエイズを引き起こすかどうかという特定の問題に関して当該分野の「医学の権威者」を集めていないことは明らかなことであります。ノーマン・ファウラー氏を除いて、すべてのパネリストが1つのあるいはどこかのステージでエイズについての主流意見に反抗していたということも公平なことなのだと言っています。
 私は、そうした主張が受け入れがたいことであるとか、現在の立場を軽視するものだとは言いません。私は、単にこう言うだけです。主宰者が「医学の権威者」としてパネル出席者の人選をし、そして、彼らは圧倒的なコンセンサス、禁句ではありませんが、HIVエイズを引き起こし、抗レトロウイルス薬物は不完全であるものの、全体的に有益な処方だとの一般見解を熟考していない可能性があります、と。それから、彼らの議論を裏打ちする映画が存在します、と。この短いコラムの中でその欠点を穿り返すだけの余裕はありませんが、読者の皆さんは優秀なaidstruth.org.で文書化資料を発見できるでしょう。尤も、フレーザー氏に対して1つ尋ねたいことがあります。それは非常に単純な話です。映画の中に何度も登場するクリスティーン・マギオール女史は、エイズ治療薬を飲まない選択を説明してみせて、その証拠として彼女が実際にそれでも生きていることを挙げて見せます。
 クリスティーン・マギオール女史は亡くなりましたね、フレーザーさん。映画はまさしくその終わりに小さい手紙でそのことを示し、事実は違うのだと言います。52歳の彼女は、肺炎で亡くなりました。そして、彼女の娘は、3歳の時に何の処方も受けることなくエイズで亡くなりました。エイズに対する思想信条に基づき、クリスティーン・マギオール女史は、妊娠中に胎児のHIV感染の危険性を降下させるための医薬品を口にしようとはしませんでした。彼女の娘のエリザジェーンちゃんは、その流れ星のようなあっという間の人生において、ただの一度もHIVの検査を受けませんでした。彼女が亡くなる直前も。エイズの検査を、です。
 私は、大きな太字の手紙で、マギオール女史がとても情熱的に皆さんに向かって話しかけながら、画面の向こうでエンディングロールが現れるこの映画が皆さんにどのような感情をもたらし、そして、そのようなスタイルの枠にはめる映画が情報に基づく議論の役に立つ出発点でありえるかどうかということは、よく分かりません。それは到底「論争の的」になっているものではありませんし、無意味にミスリードをするだけのものです。尤も「議論を始める」ことは、すばらしいことには違いありません。この映画、そして、パネリスト達によって、本当に奇妙なイベントを作りあげたものだと思います。

 今回のコラムで刮目すべきは、エイズ否定論の映画の内容でも、否定論を主導していた有名母子が亡くなってしまったという事実でも、呼ばれたパネリストが相変わらずそれを飯の種にしている渡世人であることでもない。そういう人々は、そういう人々。彼らのビヘイビアが一体どういう背景で成り立っているのか観察の意義はあるのだろうが、それはあくまで観察対象であって、観察者とシンクロナイズドはしない。彼岸と此方で分けて考える立場を維持することはおもいのほか容易なのであって、それはそれでいつものことなのだが、今回刮目すべきは『2つの最も過激な図式の間では、疑問を挿入させることで真実を真ん中に寄せることが必勝法である』ことである。これが今回の成る程一口メモである。ともすれば、足して2で割りたがる、極論を忌避する、そういう常人のバランサーに微妙に働きかける作用、戦術というものを改めて今回確認した。勿論、科学なのだから白黒はっきりつくことだとは言わない(そうでない事象も多く存在する)。しかし、灰色っぽい白だとか白っぽい黒だとか、両者の折衷を模索し始めた途端に、白の白たる由縁や黒の黒たる本質をどこかに置き去りにしてしまって、結局一兎も得ない(ナニモマルデワカッチャイナイノダということ)、そういうミステイクを、エクスキューズ多用論者との誤解を受けやすいわたくし自身、強く自戒をしたい。テキの狙いもそこにあるということである。


本日の音楽♪
「池上線」(西島三重子)

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(10.29記)
揶揄された途端、イベントは中止だそうな。
http://www.badscience.net/2009/10/this-is-what-the-spectator-sent-when-they-cancelled-their-aids-denialism-extravaganza/
もっと骨のある連中かと思ったら、へっぽこな主宰者だな、まったく。
ただ、招かれる予定であった講師陣からすれば、事前にその経歴に冷静にクレーム付けられたら神通力の半分はなくなってしまうわけだから、辞退もしたくなる。イベントの弱点部分とも言える。