青年が乗っている自転車はチェレステグリーンのビアンキ

昏く沈んだこの季節の空気がわたくしは嫌いではない。
「赤い竪琴」(津原泰水)。きっちり2日で読めた。

「創元」、しかも、「静謐な恋愛ミステリ」といった帯文句から、多島斗志之作品を連想せずにはいられない。しかし、その予想は裏切られる。
4章構成の第3章までは、主人公の女性と青年との間の心理的な葛藤とやりとりが静かに進行をする。時折、少女趣味的な立ち振る舞いや表現の匂いが気にはなるが(ルピナス探偵団もので経験済)、おおむね一貫して、主役二人の微妙な均衡点が保たれた緊張感が物語の琴線にもなっている。その大事な緊張感を損なわないが為の著者の筆力の確からしさは称えられて然るべきだろう。
そうした中で、取り巻きの登場人物達(*)の発言が断片的な謎を加味しているといえなくもないが、おそらくそれは、この主人公の周囲や社会に対する距離感、疎遠感と裏表の関係なのだろうと思って、わたくしは読み進めていった。
そして、第3章の最後部から最終章にかけて、一気に物語の場面は急変をする。それまでの静かで秘やかな進行(しかし「静謐」ではない)から一転して、主人公たちの感情はときに激し、あるいは、取り巻きの登場人物達の行動や見立ての風景が妙に直裁的戯画的になってくる。それは海の潮のべとつきだけが原因ではあるまい。そのとき、わたくしは、ハーレクインロマンスを読んでいるのではないかという錯覚に襲われた。しかし、実際にはハーレクインロマンスを読んだことがないので、本当にそうなのかどうかは分からないし、ハーレクインだから駄目なのだとも言えない。ただ少なくとも、わたくしとしては、生理的本能的に後ずさりしてしまう情念的恋物語の要素を強く感じた。(これに対して、同じオトナの恋愛作品ものでも、わたくしの最も好きな「錦繍宮本輝)」の主人公達は、同じように激しい思いを抱えていても、決して情念的ではない。)
この小説の中でわたくしの最も好きな場面は、エンディング(クライマクス)の直前、千の昼夜を経て、主人公が幻聴に苛まれながら(苛まれるという言い方が適切かどうかは分からない。青年との精神的一体化といえば良いのか)、年老いた父母の傍で外観極めて平坦な日々を送る生活をそれこそ淡々と、かつ断片的に捉えている箇所であろうか。断片的な記述には、「アルジャーノンに…」のような別の意味での精神の崩壊も含意しているのではないか。第3章最終部の舞台を動かす劇的な台詞も心動かされなかったわけではないが、おそらくわたくしは、捻くれているのだろう。
繰り返しになるが、この作品は静謐という範疇の物語ではないとわたくしは思う。劇的な場面との対比で通底の静かな緊張感は重要な要素には違いないが、これを静謐と呼ぶには抵抗がある。主題となる竪琴の音色とその魅力が分からないので、勝手にそう思っているのかもしれない。
おそらく多くの読者は、一見ハッピイ・エンドを思わせるエンディングの場面に心を大きく揺らされるとともに、その前の、主人公達の祖父母の想いの秘密が明かされる場面にも激しく共鳴をするのだろう(そこが唯一ミステリらしい場面でもある)。その箇所の見立てには、梨木果歩作品(裏庭、西の魔女が…)に近いものがあるかもしれない。わたくしは、そういった派手な演出ごとよりも、平凡な生活の中で幻聴に苛まれ静かに崩壊していくそういうシチュエイションの根深さに思いを致すタイプである。
こういった物語が、大人の、三十代の女性の恋愛観なのだと説明をされると、ちょっと首を傾げたくなる。嗚呼しかし、今の御時世からして、映画やテレビドラマ向きのお話なのかもしれない。何故ならば、主人公や相手青年役に相応しそうな俳優の顔は、幾人か容易に脳裏に浮かぶもの。


(*)その脇役たちであるが、自分の中でどうもステレオタイプに固め過ぎているのか、およそ彼らのイメージが膨らまない。その典型は、主人公の昔の男で、行動原理が激情的でも、かといって、理性的でもなく全然よく分からない。別の意味で不気味に感じた。唯一、主人公が小さい頃にいっしょに遊んだあーちゃんの肖像が魅力的。


本日の音楽♪
松任谷由実くるりの曲の質感が難しいとか言いながら唄う「春風」は「やさしさに包まれたなら」じゃないか。
「ロックンロール」(andymori