数学入門(中級編)

<矢野健>ばかり読んでいたんでは、現代の数学事情にはおよそついてはいけまい。しかし、素人頭に専門書は些かちんぷんかんぷんであるし、髭の秋山某御仁のお話ではどうも本質的な数学センスというものがピンとは感じられない(←素人頭がたいそうな発言ではある)。というわけで、『数学でつまづくのはなぜか』(小島寛之講談社現代新書)を手にする。


この本を読んでも現代数学事情に明るくなれるわけでは正直ないが、教育事情がまずはよく分かる。それ以上に、この本の優れている点は、数学的思考のありようを懇切丁寧に分かり易く繙いてくれているところにある。
例えば、ユークリッド以来の公理系についての説明。5つの公理から様々な定理を主観ではなく論理的に導き出し、体系化をしていく。二等辺三角形の底角の角度が等しいという定理の証明に関しては、「だからそれを二等辺三角形って言うんだろうが。」「同じ角度なのは見た目で分かるじゃないか。」「重ね合わせりゃ判る事を、今更どうしてそれを文章でくどくどと証明しないといけないんだよ。面倒くさ。」という声が出る。そういった不満や疑問の声がいわば「つまづき」の原因なのであると指摘をする。しかし、そう考えること自体は決して頭が悪い(理解力が劣る)ことではない。現に学者の中にもそういったアンチ・ユークリッド的枠組みを支持する者はいると釘を刺しつつ、けれども、この公理系というものは、或るルールに則って、冒険の道を進み、武器を増やして障害を乗り越えていくロールプレイングゲーム(RPG)のようなものなのである、と。成る程と膝を打つ。


わたくしにはこうした考え方や思考過程について、自然科学的というよりも寧ろ論理学的な意味で勉強になる点が多かった。こうした基本ルールというか同じ規格の土俵が用意されている状況の下では、例えば、インキチ科学標榜者との間での不毛な論争はおそらく生じまい。「1+1=2」であることや、「二点間の最短距離は直線で表される」といった主張(常識とも言われているが)は、或るルールの下で、真であることの証明(ユークリッド的に言えば、公理に基づき論理的に厳然と帰結される結果であるところの定理といった表現になろうか)が為されて、そのうえで定理として、つまり、共通の理解事項として約束がされる。そういったルールを持たない世界の中での主張や仮説はもちろん何でもありなのだが、他者を説得できる証明(「力」、「能力」といっても良いかもしれぬ)はおよそ持たない。(数学の世界で、そういった悪酔い気味に絡む輩が少ないようなイメージを持つのは、やはり約束事がきちんと整備されているからなのだろうか。)
基本中の基本の所作と言ってしまえばそれまでだが、実際にそういうことなんだろうと思う。同じ日本語で議論をしていて、「先程、自分の言った意味はそういうことではないのだ。」という卓袱台返しの発言を最近よく目にするので、まずは日本語の意味の同定確認作業から行わなければならないのかもしれないということも、もしかしたら、これと同じ話なのかもしれない。それはそれで虚しい気分にはなるが、頭悪…と相手を蔑むよりも、宇宙人と話していると思えば未だそれはそれでマシなのかもしれぬ…。
まあ、何はともあれ、数学を学ぶことは、頭の中の水路清掃にはもってこいであるというのがわたくしの本日の主張。


と思っていたら、書店で同著者の最新刊を発見。「無限を読みとく数学入門〜世界と「私」をつなぐ数の物語」(角川ソフィア文庫)。愈々売れっ子になってきたということかしら。


本日の音楽♪
「真夏の出来事」(平山みき