ぎゃふんと行こうぜ

生物多様性を理解する』というそのものずばりの表題のコラムが目に飛び込んできて、相変わらず懐疑的な言説を繰り返している当人(→つまり、わたくし)としても、新しい視点を知ることができるかもしれぬと、海女サンさながら喜び勇んで海に飛び込んでみたわけである。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090716/167943/


暫し後…海面から顔を上げて、やをら一言。
「ヒトデの大群。」
結局、海女サンは海坊主になっただけで終わってしまった。


さて、残念ながら表記のコラムの内容は、解読不明。現実感も説得力もまるでパワーが感じられない。おそらく同音異義語の対象物を説明したコラムであったか。
読者の感想の一つに「環境で飯喰う虚業ビジネス家め」といった趣旨のコメントがあり、あれまあとは思いつつ、成る程と膝を打ったり。寧ろ、このコメントのお陰で、濡れ鼠(時間の浪費)が少しは報われた、ということか。


流行り言葉としての「環境」だとか「生物多様性」だとかを武器のように振り回す連中には、彼らのビジネスとしての熱意とはうらはらに、商品自体のリアルさというものが全然肌身に感じられない。
おそらく身近な生活体験の中で自然と一体化する機会、実体験というものをポケットに持っていないからであろう。北極圏や南洋の珊瑚礁や国立公園のサンクチュアリには何度も足を運んだことがあるのやもしれない。けれども、イヌイット的な暮らしを身をもって実践し、主張しているわけでもあるまい。
雰囲気だけで「生物多様性は大切」などと言ってみたところで、余程の奇特家でもない限り、誰もその発言に銭は出さない。


例えば、わたくしのイメージする自然環境や生物多様性は、とても怖いもの。
卑近な例で喩えれば、タケノコ採り(孟宗竹ではなく、根曲がり茸のほう)で見知った山に出向き、木々の間の笹藪を漕ぎ漕ぎ、分け入っていく。腰を折って夢中になりながら採っていると、いつの間にか仲間とははぐれ、自分の居場所を見失う。笹藪の中から顔を上げる。周囲は一面の笹藪原。ざわざわざわと笹の擦れ合う音が妙に耳の中で大きくなって、不安感を増長する。皆は何処だ。どっちから歩いてきたんだっけ。里の方角は。南はどっちだ。目印が何もないぞ。傍に熊が居るかもしんない。熊いそう。ざわざわざわと笹の音。うわあ。とパニックになる。


そういう経験を何度か積めば、見知った山でも舐めたらいかんわなという薫陶が肌身に根付く。海も然り。呑気な気分だけで臨めば、いつか土左衛門で水面に浮かんでいるのがオチ。自然満喫などという気にはなれるのは、よほどリスクヘッジされた世界の中だけのことである。
無条件に礼賛するのではなく、もう少し自然環境や生物多様性のリスクにも気を配った上で距離感を保って考えてみたらよいと思う。


本日の音楽♪
「償いの日々」(財津一夫)