眼からウ●コ(ぽろぽろ編)

いけずなTYPEの小父さんばかりを取り上げて、わたくし自身このBLGのCOLORとして如何なものかとも思うのではあるが、自称、地方分権に命を賭ける?某副知事様のCOLUMNを今回取り上げる。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090421/148054/?P=1


主題は非常に明快である。
直轄国道都道との維持管理費についての比較を本邦初演で行いました('自分が初めて'というPHRASEは自慢口上の一つ)。その結果、維持管理費のうち、清掃COSTで比較した場合、都道の方が直轄国道よりもおよそ4分の3のCOSTで済んでいます。明らかに、都が管理した方が安上がりでしょう。
という主張である。


分かりやすさと反比例する形で、わたくしは、うすら寒い気持ちを禁じ得ない。何故か。
要するにこれは、地方分権というよりも、行政改革そのものの話である。
よしんば、都道の方がCOSTが安いから、都道に管理の権限を移管したとして、当該地域住民にとって一体何が変わるのであろうか(統治者の立場から言えば、それによって住民に何をもたらそうという意図を持っているのか)。
それは即ち、無駄な支出が抑えられるというだけの話である。
それがいけないことだとは思わない。しかし、少なくとも、それをもって地方分権だとは思わない(※)。


例えば、仮にこうした情報開示によって、中央政府の側が「では、都道並みにCOSTを下げますから」という行動を採った時にどう考えるべきか。談合などがなければ、即座に中央政府の側はしゃあしゃあとそのようなことを言ってきそうではある。
無駄な支出が抑えられるのは歓迎してよいことのように思うが、それで幕引きということで果たしてよいのだろうか。
地方分権というのは、COST削減よりも本質的な議論があるのだとわたくしは考えていた。


両者のCOSTに差がない場合、どちらが管理すべきなのかという点については、例えば、欧州に倣って、「補完性の原則」を適用することが考えられる。
しかしながら、それはそういう原則が住民間に定着しているということが前提となる。原則が定着するためには、住民自治(乱暴に言えば、地域のことは自分たちで管理運営するということ)がしっかりできている素地を持っていることが肝要になる。
しっかりした素地があるかどうかの検証作業がこの国で行われたのかどうか定かではないが、少なくともいまの現状を見れば、住民自治からの発意で沸き上がったPROCESSを経て、地方分権推進なのだという国民的議論には到底なっていないことは実感できる。


また、地方分権は、NATIONAL-MINIMUMを確保した上での地方の創意工夫を如何に発揮すべきかとの議論であると理解をしている。
小学校の校舎を木造にしたり鉄筋にしたりといった裁量性はあってもよいと思うが、では、どこまでがNATIONAL-MINIMUMなのかという線引きは明定されているのだろうか。
市町村によって、30人学級やら60人学級が混在することは果たして住民にとってPLUSといえるのか。自治事務のコンセンサスは本当にあるのだろうか。


中央政府が国レベルで地方分権のありようを公式に議論する場があって(おそらくわたくしもその議論に要する費用に国税の一部を投じていると思われる)、参画する委員の一人が会議の付託を直接受けたものではないにせよ、こうしたCOST比較を行うというのは一体どういう意味があるのであろうかと考え込んでしまった。
この副知事様のBEHAVIORは何なのだろう。少なくとも、節税という意識はあっても、「地方が豊かに」などと考えてはいなさそうである。
また、当然の事ながら、この挙証材料だけをもってして、地方に移管した方が安上がりですよと言う証明にもならないことは自明である。


分権のありようを議論する委員会のMISSIONを念頭に置けば、中央政府のCOST管理意識が都のそれよりも劣っている事例を提示されても、そもそもの分権のありようとは直接関係のない空虚な挙証のような気がしてならない。
地方分権行政改革の議論をEQUAL-FOOTと捉える動きも多少は承知をしている(※)。
しかし、行政改革の話であれば、国か都かの二者択一ではなく、「更に都よりもっと安く管理できる者(方策)を探せばいい」というだけの話ではないかとも考える。


確かに、情報開示をしたことに意義があると賛辞を送る考え方はあると思う。但し、それは国の情報開示の扉の方がより重くて固かったということではなくて、それは中央政府も地方政府もほぼ同じである。今回いみじくも同時に開示されていることからもそれは明らかである。地方政府の扉が軽いなどというのは現時点では幻想である。
また、昨今大きく取り上げられている公共工事の地方直轄負担金の明細がないことと絡めて議論される傾向があるが、それとこれとは全く違う話であろう。


恐らく副知事様が得意満面こういう作業を単独判断でなさっている(おそらく都民はその作業に直接間接的に地方税の一部を投じている)のであろうが、その頭の中には「安ければ、それでいいのだ」という判断基準しかないような気がする。そのため、尚更その思想の空虚さというものが胸に広がる。


地方分権ってもっと高尚な理念がある議論かと思っていたけれど、なんだ、そういう話であったのね。憲法で習った地方自治の本旨云々ってそういうことであったのね。ふうん。
などとは到底断定したくないが、いったいこの底っぺらの浅さはどうしたものか。血気盛んな意気軒昂ぶりを目にする度に、虚しさに余りあるというものである。
誰がちやほやと活を送っているのだろうか。


もう一つの場である地方制度調査会で戦後一貫して地方分権に対するENDLESSな議論が続けられてきたが、近年のこうしたAPPROACHを後世がどのように判断をするかという点で(うすら寒いながらも)興味深く見守りたい。



※「地方分権を議論する際に、行政改革の観点が入っていて何がいけないのか」と考える向きもあるやもしれぬ。
わたくしは、現在の前身の委員会(西●議長の分権改革推進会議だったと思う)があの悪名だけが今残る「三位一体改革」の議論を行った際の相当派手な内輪もめをHPの議事録で興味深く眺めていた当時の記憶がある。
あの内輪もめは、結局のところ行政改革を最優先させようとした強面議長派と権限委譲(分権)を重視するうるさ型派との抗争であったとわたくしは見ている(顛末としては議長派が強行突破した)。
したがって、地方分権行政改革の観点が入ること自体がいけないこととは思わないが、それによって、所謂総体としての分権熱が見事に醒めてしまったその後の経緯を見るにつけ、何度も同じ轍を踏まんとするこのTROUBLE-BUSTERの強心臓な言動がDEJAVUに見えるのである。



本日の音楽♪
銀河鉄道の夜」(銀杏BOYZ