何とか山麓呪い村、ではないけれど

わたくしが小学生であった頃。
父親の実家筋の親戚に不幸があり、そのお葬式に出掛けたことがあった。そこは当時住んでいた町から遙か遠く離れた場所にあり、飛行機も新幹線も特急電車も通っていないが為に、祖母と一緒に、夜行の急行列車で出掛けて行った。


確か帰省ラッシュの頃で、列車は超満員であった。通路の床に新聞紙を敷いて、そこに体育座りをしながら、家から持ってきたお握りを祖母から貰って食べた。
その夜行列車も祖母もとうの昔に亡くなってしまった。


翌朝、駅に降り立ってからも山を分け入るようにバスに何時間か揺られて行った。山の斜面に張り付くように、保護色のように山と一体化して、その小さな集落はあった。
わたくしの印象に残っていることとして、当時、そこでは未だ土葬の風習が残っていた。
時代劇の棺桶屋の中に出てくるような立派な木樽が死人の枕元に堂々と用意されていた。


今脚光を浴びているおくりびとは居られなかったが、その死人の膝を折り曲げて、その中に押し込み、皆で担ぎ、集落内を練り歩き、畑の脇の毛の生えた大きさほどの墓場に行き、地下水の堪った坑の中に棺桶を沈め、そうれそうれと土を埋め戻すといった一連の作業を遠目に見ながら、わたくしは子供心に、「この世の中には怖ろしい風習が残っているものだ」と戦慄を覚えた。


実はそれ以上に戦慄を覚えたのが、厠であった。
当然のことながら、水洗ではない。わたくしの住む田舎町でも当時の水洗率は1割にも満たなかったであろうから、そこが水洗でないこと自体は不思議でも何でもなかった。


しかし、その厠の設備ぶりはと言えば、野溜めに屋根をつけただけのものであった。
大き目の肥溜めには申し訳程度に木の橋を一本渡しただけ。肥溜めとあの棺桶の木樽が思わずシンクロして見えた。


怖々と木の橋に足をかけながら、子供心に「絶対に落ちてはいけない。落ちたりしたならば、これからの人生を決する大変な汚点が一生身についてしまう。もしかしたら、ここから這い上がれないかもしれない。」と戦慄をした。


当時、PTAが真っ赤になって怒り狂うような御下劣なンコネタ漫画やギャグが小学生の間では大流行をしており、ンコ話は或る意味身近な存在であったとは言え、物理的現実的に身近な存在になってしまうことは何としても避けなければならないというブレーキが強く作用していたのである。


その人生を決するような出来事が実際に起きた。
といっても、落ちたのはわたくしではない。お葬式に参列した見知らぬ親戚の小母さんが落ちた。
わたくしは幸か不幸かその場に居合わせたわけではないが、相当の騒ぎであったらしい。厠の近くにある川に行って、洗い流したそうであるが、傍に寄るのは皆が避けていた。
わたくしは只管怖くなって、以降、その厠で用を足すのは我慢するようにした。


それ以来、その土地には足を向けたことがない。したがって、今はどうなっているかは全く分からない。
おそらく土葬の風習はとうの昔に無くなってしまったであろう。あの戦慄の厠も、というか、集落自体がもはや無くなっているかもしれぬ。


本日の音楽♪
どうしようもない恋の唄」(The Roosters