血液型性格診断を糾弾することと、占い師を面罵することの違い

この国のアカデミアの頂に位置する学術会議の発刊誌において、科学リテラシー向上のための取り組みについての特集記事があったので、これを読んでみたりする。
すると、「成る程ねえ。骨太であるねえ。」と思う反面、「なかなか素人様には良く分からないだろうねえ。」などと偉そうに評論家面をして感想を述べてみたりする。


一方で、何処其処とは特定をしないが、様々な科学団体機関が科学リテラシー向上のための非常に多種多様で具体的かつ興味深い社外活動をしていたりする。個々の活動の成果はよく承知をしないが、そういった取り組み状況は「それはそれで、大変に喜ばしいことであるねえ。」と思ったりする。
また、こうした意義或る活動の裏腹にある現状認識として、科学に対するリテラシー低下というそれだけの深刻な問題の種がこの国に、国民の間に厳然として蔓延っているのであろう事をも実感したりする。


「詰まらぬ」と言えば、詰まらぬ。「当たり前」と言えば、当たり前の、些か中身のない前置きを踏まえつつ、そこで、わたくしは、このような記事を読んだ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090420-00000301-president-bus_all


「血液型による性格診断は、(筆者述べるところの潜在的に大きな)社会的問題を孕む疑似的(筆者述べるところのニセ)科学である」という筆者の主張である。
筆者の簡潔な文章の中に、これまでに行われてきたであろう本事象を巡る議論の様々な問題のポイントを伏線的に配していることからも見て取れるように、敢えて筆者の見解内容の一々を今更問題視して取り上げても、多くの場合、無駄な浪費を要すだけである。


それは何故か。こうした疑似的な××科学を叩くという構図は、結果としてその手法論が「悪者探し」並びに「排除」という選別思想の色彩を帯びるが故に、狩りをする自らの側にも同じ矢が投げかけられることによって、結局のところ不毛な水掛け論が延々続くという図式がこれまでにも何度か見られてきた。


であるから、わたくしは、「科学的な根拠が存在するのであるから、ニセ科学ではない。」とか「科学的アプローチの有無をもって行う批判は正しい方法論とは言えない。」あるいは「この言い草は定型化して飽き々々しているのである。」と言ったメタな批判は、この場では行わない。
こうした黴の生えた逆批判は、形式論に堕した仕様もない下らぬ論争好き(そういう輩硎衆を呼び込みやすいイシューでもある)の恰好の餌食になるだけである。


しかしながら、筆者の主張には大変に根源的なところで「無視できぬ違和感」を禁じ得ない。法廷で占い師を恫喝すれば罪状が加担されるが、一方で、今回の主張は言うなれば、占い師の面前で「それは科学でない」と糾弾しているようなものではないのかとわたくしには思えた。


おそらくそうした違和感は、彼我の××科学に対する「マインドの違い」がその一因であろうと想像する。
そこで他者批判に時間をかけるよりも、寧ろわたくしが考える問題の所在の置き場の違いを記載しておこうと思う。
3つに要約をしてみる。


◆トレランス
例えば、明らかに詐欺犯罪行為の社会悪が生じているインキチ発明とは区別される、と或るグレイゾーンの事象があったとする。これを「黒っぽい」と定義するか、「黒とは違う」と定義するかどうかの違いがある。
情緒的な表現をすれば、それは詰まるところ、黒を憎むか、白を愛するかという寛容性の相違なのかもしれないとわたくしは考える。無論、愛する方が憎むことよりも感情的に優れているなどとは自慢したりしない。


◆ビヘイビア
こうした寛容性の具象化という意味で、××科学のもたらす社会悪を問題視する視点は共通であっても、××科学そのものの撲滅を目的化しているかどうかの違いに両者の差は現れる。
わたくしは、これを必要悪とは凡そ考えていない一方で、「社会にとって何が弊害なのか」という視座がぶれない限りにおいては、万能ではないが、常識的な決着方策が自ずと導き出され得ると考えている。そこから導き出される結論は、撲滅目的の運動とは一線を画すものとなる。


リテラシー
××科学によってもたらされる社会悪を意識・自覚しない個人が多い中にあって、そうした人々に対して、その自覚に働き掛ける手法が科学リテラシーの向上にとって効果的効率的な手法といえるかどうかの違いがある。
例えば、科学リテラシーというものが必要となる場面を想像してみた時に、詐欺被害といった社会悪の現場もさることながら、最先端の科学を社会が受け入れるかどうかという場面でその度量如何が問われることとなろうとわたくしは考える。
したがって、××科学叩きだけでは、社会全体の「ワン・ステップ・ビヨンドは生じない気がする」というのがわたくしの考えである。


彼我の相違に関しては、「リテラシーて何なのさ。」と多くの国民が首を傾げている状況の下で、あるいは、「血液型の世間話が一体どういう弊害を引き起こしているのさ。」という危機意識を現に共有しない状況の中で、敢えてこういった厄介な事象を模範題材として取り上げることを「チャレンジング」と見るか、「見当外れ」と見るかの違いでもあるといったような単純化も可能ではないかとも当初考えては見た。


しかしながら、それだけの話としてしまえば、「好みの差なのね」というほとんど行止まりの始末の仕方も出来てしまう。それとは違う観点からの問題の所在として、わたくしの意識の底には常に「科学リテラシー」という言葉がある。
こうした場に登場する人物が何を発言しているのかということ以上に、その人物が科学の側に立って社会と接する際にどのような視点を持っているのかということが、わたくしには最も気になるところなのである。


そうした視点から今回の記事のアプローチというものは、総体としての科学と社会の有り様を考える恰好の機会となり得るかという意味において、寛容性の喪失、行動原理の違い、公益意識の欠如といったところを起因として、負の性格を帯びる「悪者探し」のアプローチによって、科学リテラシー向上には直結しそうもないネガティブな取り組みに堕してしまう恐れがあるように思えるのである。


念のために記しておくが、丁寧に語る姿勢というものは、決して、「科学者然」とした顔で自分の領分の定理や公式を念入りに教えることではない。また、寛容が大切だからと言って、科学の皮を被った偽物に憐憫の情を抱く必要もない。
そういった分かりやすい単純化によってリテラシー問題を捉えることは、余りに一面的に過ぎることになると思う。


リテラシーは総体としての問題である。理想を言えば、それは、科学界というソサエティから社会に向かって送られるシグナルとして、様々な事象を含みつつ、自発的に産み出されてくるようなものでなければならない。
そうした思いを致している時に、今回の記事で語られるようなアプローチのケースは、余りに「卑近」かつ「矮小」が過ぎる。


とは申せ、所詮、何度も言うようにそれは彼我の「マインドの違い」でもある。
こうした問題認識自体が、おそらくニセのニセたる部分を暴くことに(嬉々としているかどうかは知らない)没頭している輩硎衆(筆者がその中に含まれるかどうかは知らない)には分かるまい。そのワールドに居る限りにおいては、おそらく一生分かるまい。


それはそれで良しとした場合。そして、「住む世界が違うのであるから仕方がない。」という意味に置いては、このこと自体が、疑似の神を信奉する者に対して抱く心境とそれほど大きな違いはないということなのかもしれぬ。
そのスパイラルな意識は彼らもこれまでに幾度か経験してきていると思われるので、彼らならではの大凡の想像力が働こうというものである。


本日の音楽♪
「sketch」(南佳孝