野焼きのまたの日

野焼きが終わって暫くして、緑が芽吹き始めたものの、未だ山全体に煤け具合が残っている頃合いを見計らって山に分け入る。
山菜採りのためである。ワラビ、ゼンマイ、クサソテツ、ヤマウド、オオバギボウシ、タラの芽…(※それぞれに地方独特の呼び名が或る)。
1年分の食料を夜明け直後から昼過ぎまでかけて収穫をする。相当の収穫物を背負った帰り道の姿は、さながら行商のおばさんのようである。


家に帰ってからの下調理がまた大変である(クサソテツウワバミソウなどは比較的楽ちん)。あく抜き、筋取り、水煮、そして瓶詰、塩蔵。ほぼ1年分の家族の保存食である。文字通り、朝から晩まで全身真っ黒けになって行う重労働である。


幼少の頃は家族に付き添われてオンザジョブトレーニングでこれらの作業を熟してきたが、学生になり、純粋な独り暮らしを始めてからも、自らの生活(自活)のために、この年中行事を暫くの間熟していた。社会人となって大都会生活をするようになってからは、さすがに辞めてしまったが。


したがって、わたくしは、春先のこの時期になるとどこか山菜ハンターの血が騒ぐ。狩猟本能とでも言うべきか。狩猟といっても動物狩猟ではなく、焼き畑みたいな植物採取だが。


学生時代は、野焼きの山に行かずとも、「食べられる野草」の図鑑を持って、道端(といっても犬猫がやって来て用を足しそうもない清潔な所)の野草採りにも精を出した。
食べられる雑草というのは結構な種類があるのである。しかも、新芽であれば、それほど癖もなく食べられる。
クラスメートとジンギスカンを囲んだ際に瞬く間に具材が無くなったので、野草を摘んできて、そのように言いくるめながら、皆に食べさせた。すこぶる不評であった。


野焼きによる事故のニュースが先般話題になった。
すると、「危険だ」というだけならまだしも(危険だから集団で管理制御してやっていた上での事故である)、こういう声が巷から出てくる。まるで絵に描いたインキチ学者のような発言であるが、実際に出てくるのである。わたくしには、こうした誰が見ても分かる底の浅い発言を進んでする度胸というものが俄には信じられない。


・無辜な植物動物を殲滅し皆殺しにしてしまうのは人間の傲岸不遜(→→庭の雑草取りも出来やしない。)
・CO2排出によって、地球温暖化防止に逆行(→→放って置いて枯死物が土に還元されても同じ。カーボンニュートラルである。)
・そのままに放置して森林に戻せばよい(→→おそらく時間軸の概念やリアリティな想像力が無責任なほどに欠如している。)


野焼きは山菜採りのために行っているのではない。したがって、山菜採りのために野焼きを遺すべきかどうかなどと考える必要もない。
管理粗放による雑草茫々の荒れ地化を防ぐため、一方で労働力がないために効率性の観点からやむを得ず行っているリスクのある作業(ごく一部の観光地は別)なのである。
そういう悉くに思いを致さないのが、底の浅さの所以である。


わたくしは、潔癖な人の前で3秒ルールの存在を教えることが出来ないのと同じように、こういう発言をする人との「結」は出来そうもないなとつくづく感じる次第である。というか、そういう人間はおそらく集落では暮らせまい。頭の中だけで自然を弄んでいる典型である。


ちなみ、これはやりすぎ。
http://www.asahi.com/national/update/0424/TKY200904240049.html


本日の音楽♪
「GT400」(thee michelle gun elephant