「偕老同穴の契り」を英訳してごらんなさい('marriage bed'じゃ駄目)

たぶんLAタイムズのオピニオン欄より。
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(仮訳)
◆一夫一婦制を守るために
人類の性行動を動物のそれと比較することは、我々が驚異的な生物種であるという事実を無視したものである。
(Sharon M. Scott記)
 11月22日のタイムズ紙特集ページ記事「当然、一夫一婦制は容易なことではない」の中で、生物学者のデイビッド・P・バラシュ氏は、一夫一婦制が動物の世界では珍しいものであることから、それは人類にとって不自然なふるまいであると主張する。この議論の論理には大きな瑕疵がある。
 たった一人の個人に対する献身は人間性に反したものであって、そして、「一夫一婦制のためにやめる」者は誰もいないのだということを述べる中で、バラシュ氏は、人類がこの惑星上の他のどの生きものとも違っているということを認めない過ちを冒している。我々の行動パターンを鳥や動物と比較することは、時として、我々人類の種を理解する役に立つことはあるのかもしれないが、人類にとっての「自然なこと」が何であって何でないのかを確定するためにそのことを用いてはならない。多くの注目に値する方法によって、我々は動物界において類がない生物種であることが示されている。要するに、他のいかなる生きものもハイウェイや寺院、宇宙船を建造しないのである。しかし、そのような成果を「不自然なことである」と言うことはおかしなことだ。
 バラシュ氏は、人類の一夫一婦制がどうにもねじ曲がっているという彼の持論を支持するために、ハクチョウとペンギンの性的慣習を取り上げる。私は鳥類学者ではないが、野生のハクチョウの寿命が7年であるということは知っている。そして、ペンギンの寿命は15〜20年である。平均的な人間の子供は、7歳になっても、成長期の途中であり、全く大きくならない。15歳になって漸く若者である。地球上の他のどの生きものとも異なり、人間の子供を育てることは、特別な量の時間と注意を必要とするのである。母と父が長期間参画することが若い人間の成長にとって必須であるという事実に異義を唱える人は少ないだろう。人類の一夫一婦制は、バラシュ氏が解説する不自然なふるまいであるというよりもむしろ、我々の子供たちが成長するのを助け、我々の複雑な種を進化させる上で自然発生的な美徳であるように思う。
 バラシュ氏は、包括的な見解として、「一夫一婦制が人類にとって自然なものなのかどうかについての重大な議論が見当たらない。そして、それはそうではないのである。」と述べる。彼はそう言って議論をシャットアウトして、完璧なアリバイを例えばエリオット・シュピッツァー、マーク・サンフォード、ジョン・エドワーズといった姦通者に提供するのである。
 我々の社会において現出する危機的状況が存在するにもかかわらず、一夫一婦制は人類の進化の歴史において、驚くほど一般的なことであった。我々の原始のいとこの骨から古代の先祖のテキストまでを学ぶことで、我々は家族への献身が多くの場所と多くの年齢の人間の間で一般的だったということを発見する。アメリカ人がタイガー・ウッズとデイビッド・レターマンの注目を集める結婚崩壊を注目しているように、世界中のあらゆる誘惑にもかかわらず、互いへの献身を維持してきたゴールディー・ホーンとカート・ラッセル、あるいは、オプラ・ウィンフリーとステッドマン・グレアムのようなカップルの驚きを人々は見逃しているのである。
 バラシュ氏が「一夫一婦制は簡単ではない。」と言うのは控え目な表現である。愛は戦場である。しかしながら、それがどうにも「右翼である」とか「不自然である」とかといった確信を持つことは間違っているだけではなく、我々の社会、特に我々の子供たちの将来にとって有害なことなのである。
 一夫一婦制は、誰のためにあるというものではない。それは、確かに心臓の弱い人間にとっては有利なものとは云えまい。母として妻として、私は、長年多くの試練を通して只一人の人間のもとにとどまる難しさというものを理解しているつもりである。夫と私は口論をする。昆虫であったならば、私は逃げ出して、新しい誰かを探し出すことが非常に簡単なことであったのかもしれない。だが、どうにか本能によって、私は家から常に引き留められる。そして、暖かく信頼できる抱擁によって、私は私の家族が世界で最も美しいものであるということを認識するのである。私の考えは、そういった終りのない愛を越えること以上に不自然なことは何もないということだ。「一夫一婦制をやめる」人が何処にもいないことが、バラシュ氏の見解への反論となることから、「私は一夫一婦制を肯定する」と誇りをもって主張したい。