やっぱり不機嫌なファンダメンタリストたち

最近、R.ドーキンズをきっかけに宗教関係の記事に足湯を浸かりに行く機会が増えたような気がする。わたくし。
今回は、NYタイムズ紙のコラム記事。
http://www.nytimes.com/2009/11/26/opinion/26kristof.html?em

宗教戦争
(byニコラス・D・クリストフ)
 ほんの数年前、全知全能の神がリチャード・ドーキンスやクリストファー・ヒッチェンズあるいはサム・ハリスのようないじめっ子をこてんぱんにやっつけてくれないのは、まったく不思議に思えました。彼らは皆、宗教を痛烈に非難し、魅力的な稲妻を伴うベストセラーの本を出版しました。
 伝統的に宗教戦争は、剣と執拗な説得を武器に闘われてきました。今日、それは屡々書籍の上で行われます。そして、活字による闘技場(文壇)において、こうした闘いが両極端の議論によって行われているのでした。
 原理主義者(ファンダメンタリスト)たちは、イエス・キリストがアンチ・キリスト派(その雇われ職が国連の事務総長なのだそうです)との戦いのために地球に舞い戻ってくるという「おちこぼれ」小説によって一斉射撃の火をつけました。一方、信心深い無神論者たちは、www.whydoesGodhateamputees.comといった半ば虚仮にするようなウェブサイトを作り出しました。このサイトは、信者たちが定期的に祈ることで癌の治療ができると信じている一方で、神が失われた四肢を再び成長させてくれることは決してあり得ないのだということを記述しています。それは、手足を失った人に対する神の差別を意味するものでしょう。
 本年は、あまり好戦的ではなく、より思慮深い本の収穫という意味でその様相が異なりました。ロバート・ライト氏が書いた本の一つ「神の進化」がそれです。彼は、過去の世紀において、宗教がいかに変化し、改善されてきたかを調査してきました。彼は、人類に認められた神が、往々にして、定期的に大量虐殺を命じた旧約聖書中の気まぐれな司令官から円熟してきた点について明記しています。
 (サミュエル15:3において、神はアマレク人の大規模な虐殺を命じます。「すぐに、アマレクを攻撃しに行き、彼らが持つすべてのものを破壊するのだ。彼らをいたわる必要はない。男も女も、幼児も子供も殺すのだ。」今日では、このような行為を命じた神は国際刑事裁判所に告発されるでしょう。)
 ライト氏はまた、一神教イスラエル人の間で徐々に広まり、そして、我々に馴染みがある神が創造の神、El、戦いの神やヤハウェの合併によって生じた可能性を主張します。さらに、一神教バビロニア亡命の後までに強固に確立されなかったとも主張します。そして、モーゼのポイントは他の神を崇拝してはならないことであったと言います。そうした他の神々が存在しなかったというわけではないのです。例えば、彼はPsalm 82で「神の議会」と「神」への問題の言及について記述しています。
 通常の日曜礼拝教室では聞けないもう一つの意外な事実として、ライト氏は、神(同様にElやヤハウェも)がむしろギリシア神のような性生活を営んでいたという聖書の証拠を引用して、ヤハウェが妻アシェラーを持ったかもしれないことを示す考古学的な発見について記述しています。
 キリスト教に関しては、ライト氏は、聖パウロがイエス以上に黙示録的な予言者であって、彼が愛と普遍性を強調し、今日知られているようなキリスト信仰を構築したのだと主張します。彼の言によれば、聖パウロがこれら個々の要素を集中させ、非ユダヤ人の転向についての教会の訴えを部分的に拡張させたのだということです。
 ライト氏は、どんな人種・種族であっても人類にとっての倫理基準が人類への共感(同情)を支持し、大量虐殺を否定する方向に向かうような、より利益を生み出すような普遍的な主としての神のイメージに向けた進化について調査をします。ライト氏の焦点は、神が存在するかどうかということについてではありませんが、神への認識の変遷が歴史的道徳的な方向においておそらく何らかの精神的な力を順次どのように反映していったのかについて提案したものです。
 「『神』が成長していくその範囲が証拠となります。それは多分まとまって大きな証拠ではなく、より高い目的をもった証拠なのでしょう。」と、ライト氏は言います。
 今年のもう一つのベストセラー本であるカレン・アームストロング女史の「The Case for God」では、同様に「空の御爺さん(Grandpa-in-the-Sky)」の存在を断言しません。むしろ彼女は、証明されることがありえない、全く合理的な感覚でも反証材料にもなりえない言い表せない存在として、神を定義しています。アームストロング女史にとって、信心とは、生命の謎に関する領域と、あまりにも文字通りに宗教的な伝統を解釈するという誤りを冒す「神のギャップ」の両側の人々が存在する理屈の世界の向こう側にあるのだと言います。
 「過去何世紀にもわたって、あらゆる文化の下にいた人々は、彼らの推理力を限界まで拡げて、その限界の果てまで言語を広げて、できるだけ献身的同情的に生きることによって、落ち着きと勇気を持って彼らの苦しみを超越できるという経験を発見してきました。」アームストロング女史はこのように書いています。彼女の本は、宗教が失われた四肢を再び成長させることはあり得ないが、一部の手足を失った人がその損失に納得する手助けになるかもしれないということを示唆します。
 神を信じる人は誰でも、依然として宗教が世界で最も強力な軍隊の一つであるということに疑いを持ちません。今日、何百万人もの人が彼(あるいは、彼女、それ)に感謝を捧げています。
 もう一つの新しい本「Faith Instinct」は、私のタイムズ紙の同僚であるニコラス・ウェードによって、信心の耐久性についての理由を提案したものです。初期の時期に信用するということが進化の利点を与えたことから、人間は宗教的な信念のプログラムがされたのかもしれません。それは神が存在するかどうかの問題に直結するものではありませんが、宗教が何らかの形で来る永劫のために我々と共にあるかもしれないということを示唆するものです。
 私は、最近のこれらの本によって宗教戦争が休戦協定に入り、宗教的な狭量さと無宗教の狭量さから離れていくことを望んでいます。それはおそらく、我々が神に加えてより高い道徳的な命令の方向へと進化している徴候でもあります。

できるだけ宗教について距離を置いて客観的俯瞰的冷静に述べたいのだという筆者の意思は見てとれる。けれども、コラム冒頭にあるように、宗教をけちょんけちょんにしたドーキンズらが天罰を受けないのもまた神の限界なんだろう。信じるものは救われる方向にそのパワーを発揮するのであれば、信じることの限界も突き詰めていくべきだ。安易に軍隊よりも強力だなんて過信しない方がよい。そして、くれぐれも自然科学領域に二度と足を踏み入れるべきでないことも念のため申し添えておこうか。(当然、その反対側の立場も同じ。)


ところで、足湯って物珍しくてわざわざ靴下だけ脱いで足を入れたりして、うわっ、あったかい!なんて歓声を挙げたりするのだけれども、足を拭いてもっかい靴下を履き直して歩き出すと、ほんとうに躰があったまったんだかどうかよく分かんなかったりする。
何がありがたいのか不思議な装置だ。


本日の音楽♪
さよならストレンジャー」(曽我部恵一