熱帯多雨の国から来たスパイの場合について

皆の罪を一身に背負って十字架に張り付けられましょうという人間がその後長きに亘り感謝され続けるという歴史的顛末があったように、或いは、誰かは知らねど今人神が毎朝お祈りをして先祖の魂に謝っていることでもって救われる多くの国民がいるのだと街宣車が声を張り上げるように、この際わたくしも、この世の全ての罪科については自分の不徳の致すところに拠るものなのでございます、と日々反省し続けているのだから、皆に敬われても然るべきではないだろうかと主張したいところなのであるが、通常、世の中ではそういう物言いに対しては冷ややかに「足下を見て」右の耳から左の耳へと受け流す。つまるところ、そんな立派な発言が赦されるのは、人によりけりというのが現実なのであって、実際の祈祷行為の証拠如何に関わらず、常識人はそうそう人前で広言したりしないということである。


とまあ、本題に些か結び付き難いまくらから今回は入ってみたのであるが、最近、随分「自省的」なミステリを読んだのである。作品名は「ゴメスの名はゴメス」(結城昌治)。
舞台も刊行も40年以上前の作品であるから、相当古びている内容かと思ったが、我が国スパイ小説の曙光と言われるだけの水準作には違いなかった。現代のスパイ小説にありがちなハラハラドキドキのエンタテイメント色はほとんどない。それほど活劇的でもない。高城高のような古風なスタイリッシュさとも違う。主人公の内部に巣くう個人的孤独感が主題であるために、冒頭「自省的」と評した次第である。とは言え、私小説のようなぐずぐずとした副作用がそれほどあるわけでもない。主人公はぐずっている感じがほんの少しばかりあるけれども、鼻につくレベルではないかもしれない。スパイ達の造詣など中々に味わい深いものがある。というか、出てくるベトナム人達の暗い陰が作品にメリハリを非常に利かせている。時代背景としても、ベトナム戦争という泥沼の内戦に突入する直前の平衡状態が崩れる間際のベトナム国内の雰囲気がよく出ている。
繰り返すが、現代のスパイ小説は、或る意味もっとエンタテイメント色を強調していたりして、例えばフィルムの画像解析能力が向上したために、それぞれのシーンもある意味際立っているのが現代の作品の特徴のような気がする(例えば、「エトロフ発緊急電」(佐々木譲)を想定してみたりする)。人物造詣の抉り出し方も相当に刀を入れて強弱を効かせているのが現代の風潮のように思う。一方で、主人公がベトナム人に対して抱いている容赦ない蔑視感や忌避感のようなものは、国際化の進んだ現代では却々表現しづらいものがあるかもしれない。昭和30年代のコンパクトにして地味で感情の処理を完結させないストーリーテリングは、いまの時代とは異質なものがある。そして、異質であることが一つの魅力でもある。定石的な団円であって、しかし、この収束は後を引く。星二つ半。


本日の音楽♪
「忍ぶ雨」(藤正樹)