祭りの後の寂しさは、ヤーレンソーランクローン化計画

クローン動物(ウシ)の(食品)安全性に関する子供向け解説記事。慎重派の主張が的を突いている。

【慎重派の意見】
・今はわからない危険がかくれているおそれがある

http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/syokuiku/archive/news/2009/20091008org00m040003000c.html
M新聞は、だから、やめられない。常人には到底食べられそうもない現地料理を目の前に見せつけられている心境。「どうだ、凄いでしょう」という声が聞こえてきそうだ。例えば、下の句に『それにつけても金のほしさよ』と必ずくっつけては、全ての川柳が味わい深く成り立つあの作法と同様に、あらゆる科学技術に対して、「今は分からない危険がかくれている」と一言添えて、全ての研究開発の進行を辞めさせてしまうこの「今・危・分」運動は、日本でもっと流行らないのだろうか。少なくとも、一般主婦受けは、しそうな気がする。


それはそれとして、実は、かくいうわたくしも「今・危・分」とさほど変わらぬ妄想にとりつかれていたりする。(したがって、本日に限っては、M新聞をこれ以上非難したりしない。)
話題は全く別のジャンルに飛ぶのだが、最近、夏祭りや秋祭りで、よさこいソーラン踊りあるいは類似の集団演舞を催すところが巷で頓に増えてきているような気がする。地域興し・まち興しという観点から、市民参加型の祭りの方が余程盛り上がるであろうし、現代的軽快な踊りは観ている側も退屈しないのだろう。しかし、どうして日本全国どこもかしこもよさこいソーランなのだ。
各チームの演舞の後の、祭りのフィナーレで参加者全員が南中ソーランを踊るのを傍で見ながら、「なんだかへんだぞ」「どうもおかしいぞ」「この空気に溶け込めないぞ」という違和感がわたくしの中から消えない。クローン肉を食べるのは全く些かの躊躇も感じないというのに、こうした一億総踊りを見ていると、ぞわぞわ感に苛まれ、M新聞宜しく「懸念の声」を表明したくなってしまう。


最近は、小学校でも皆踊って練習をしているらしい。彼らが大きくなったら、共通の思い出話として、語り合ったりするのだろうか。
A「俺、南中ソーラン得意よ。」
B「僕んとこは、エイサーだったな。」
C「私、さんさ。」
A,B「何それ?!」


本日の音楽♪
イパネマの娘」(イリアーノ)