カシスサワーで酔っ払う市井の人

この国のありようを考えてみるに、、、などとたいそうな大風呂敷を広げた話をすると、バラク・オバマならまだしも、わたくしが傍らで朝顔が萎えた縁台でカシスサワー片手に偉そうに口にしても到底様にはならない。
そういうシチュエイションであることの視線を外さずに、以下読むべきであるが、一つの対立軸として「大きな政府」VS.「小さな政府」が取り沙汰される時に、わたくしには不満な点がある。
まず、これが政府の大小に終始した論に陥る可能性があり、それは結局のところ、程度論であって、究極的対立軸にはなり得ないだろうという点。
そして、この国のかたちを形作る際に重要なのは、政府の形ではなく、国民の側の形がまず一義的なのではないかということ。
就中、政府に限ってみれば、政府は国民あっての政府であり、政府が単独であり方を考えると言うよりも、国民との関係性の中で政府の有り様が定まってくるのではないか、と考える。
したがって、政府の大小をアプリオリに問うよりも、国民の側がどういった態様を示そうとしているのか、即ち、これまでのように国民が政府に何でもかんでも委嘱するオカミだよりのシステムを重視したいのか、政府には余り構って貰わない代わりに自律的な規制を好んで受け入れるシステムを重視するのか、といった点で意見が分かれそうな気がする。
要すれば、より始原的な動機付けでこそ根源的対立が生まれるのではないかと考える。
巷間よく言われる「高負担高介護」か「低負担低介護」かという分類ともちょっと違う。
負担とリターンの行く末を考えれば、出来るだけ高介護を志向しつつ負担の節約を望む姿に引きずられ、均衡点で収束していく情景は予測できる。それではやはり程度問題に終始し、根本的対立の軸になり得まい。


…といったことをさらに深掘りして論じていこうかとも思ったのだが、カシスサワーの視線が論を惑わすことは否定できないので、この際、更なる大洞吹きはやめにしよう。
大きな政府」と「小さな政府」で思い浮かべることとして、後者を明らかに指向していたフ●サン●イグループが、最近、こんな主張をしている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091002/stt0910020300006-n1.htm

ダムの必要性の是非以前の問題として、地元住民らは半世紀近い反対運動の末に国の説得を受け入れ、完成後の将来設計に思いをはせていた。この期に及んでの突然の中止宣言はとても受け入れられないだろう。
(略)
国民生活に必要不可欠な公共事業はある。
(略)
過去の政策手法や事業の抜本見直しは新政権に期待されるが、原理原則を振り回すだけでは国民の理解は決して得られない。

一方的ダム中止如何なものかという内容であるが、かつて昔、大昔、山陽地方のとある瀟洒な市役所の映像とともに「こんな立派な庁舎が必要でしょうか」と大キャンペーンをはっていたあのグループがこんなことを言い出すなんてと、わたくしはしみじみ隔世の感を感じる。
カシスサワーの最後の一飲みでもう一言ぐうたれるとするならば、このかつてのキャンペーンも政府と国民という関係性を認識させてくれたまでは良かったが、両者が対立的に位置付けれらたままではそこからは最後まで生産的な果実が産み出されないだろうにと考えるのだが、どうだろうか。
というところで、カシスサワーが尽きた。


本日の音楽♪
「思い出の写真」(柿原朱美