春から夏へ、夏から秋へ

4月に種を捲き、5月には田植えを行った皇居のお米もどうやら収穫の時期を迎えたようである。
今年は現下非常に大きな台風メーローが日本に向かっている影響で、収穫日の日取りがどうなっているかは知らないが、昨年の場合を見ると、10月2,3日に水稲の刈り取りが行われている(粟の収穫日は不明)。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/photo1/photo-200810-1049.html


4月9日付けの当BLOG「今日もご飯を有り難く戴きますといえること」の中で、この五穀豊穣行事(収穫物は11月23日の神嘗祭に献上される)を思考して以来、およそ3つの季節を跨ぎ、周囲の情景は一変してきたわけである。というか、皇居で育つ水稲や粟のことをすっかり忘却の彼方に置き去り状態にしていた。この際、この忘却に際して、2つの感慨を考察として纏めてみたい。


一つは、農作物は人間の手を煩わせなくても、何とか成長する可能性があるということ。これは粗放栽培(何とか農法という名前が憑きやすい)の勧めであるとか、お定まりの文明批判のつもりで言っているのではない。勿論人間の手を適切にかければ、よりスクスクスクと順調に育つことだろう。しかし、人間の手だけで全てが順調に完遂されるというわけではなく、お天道様のご機嫌次第という面があることは否めない。このことは、農業という産業が原始的で遅れているという意味でも、殊更他律的な要因が多くを占める難しい技能職であるということを強調したいわけでもない。農作物を育てることの意味として、特別視すべきは、別の点にある。


その二つ目は、「時間」を必要とする営みであるということ。その点を寧ろ特別視して考えるべきではないかと思う。現代の技術の粋を集めても時間を制御することができないように、この農作物を育てるという営みは資本や労働や太陽エネルギーといった投入以外に、時間を必然的に必要とするのである(促成栽培とかの例外を思い浮かべるかもしれないが、根本的矛盾はない)。他の産業上の営みとの違いはその点にある。時間を必要とするこうした行為自体が、時間の壁をどうにか乗り越えようともがき、タイムレスなライフスタイルを指向するわたくしたちの文明指向と相反し、象徴的な衝突の軋轢を産み出すのである。そのズレがアンチ文明的な農法テーゼをも産み出し、一方で真っ当と思われる哲学的文明論の形で今後益々現出してくると思われる。
雑駁で的を射ていない文章だが、取りあえず気付きの点としてメモランダムしておこう。


なお、4月時点の疑問点の解消はあれから殆ど進んではいないのであるが、一点、自殖種子の使用に関する異種混入や弱勢化の可能性については、宮内庁の説明が見つかった。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/activity01.html#H2-01

天皇陛下は,我が国の農耕文化の中心である稲作について,昭和天皇のお始めになった行事をお引継ぎになりました。春には種籾をおまきになり,初夏に田植えをなさり,秋には稲刈りをなさっています。種籾は,平成元年以来植えた年ごとに繰り返し育成しているものと,新しく独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構作物研究所(旧農林水産省農業研究センター)産のものをまかれており,平成19年には,190株の田植えをなさいました。

由緒正しい種籾を毎年購入・更新しているということで、得心がいった。


本日の音楽♪
「スイミング」(深田恭子