くそエッセイ(御下品なタイトルとネガティブな内容を冒頭陳謝)

学生の頃、研究室仲間と少女漫画を読みあうことがちょっとしたブームになり、仲間内でどれが優れた作品かをランク付けした記憶がある。その際に、どうしようもない水準の作品を「くそマンガ」と呼称し、さんざ扱き下ろし、揶揄をした。著名作で、今でも書店の棚に並ぶ幾つかの作品がわたくしたちの邪悪な選評眼の網に絡め取られたりした。今回は、その随筆(エッセイ)版の話である…。


こうしたBLOGのように個人的主観を全開にして日々を綴る行為についてはわたくし自身何とも思わないのであるが、そうしたものが書籍として売り出された時の話は別である。たとえ著名人であったとしても、その日記が商業作品として面白いものと評価されるためには、矢張りその著作者のダイアリイ内での思考なり行動に共感する部分がなくてはならない。そして、バーチャルとは云え、イケ好かない人間(著作者)に寄り添って、その日常を観察することほどあたら詰まらぬことはない。況してや、貴重な読書の時間を費やしてのことである。であるから、そういった共感をまるで有しない場合の日記風随筆ほど虫酸が走るものはないというのがわたくしの一貫して偏向した信念なのである。


気に入らなければ、買わなければよし、読まなければよい。したがって、そういった気に入らない日記本の書評で腐す機会も本来であれば必要ないわけではある。しかし、今回、敢えてそういった行為にわたくしが及ぼうとした理由は、その種の本が自宅のソファの上に転がっており、その上、わたくしが何気に手にとって摘み読んでしまったからに他ならない。
貶すばかりの話であるので、些か躊躇があるが、水菓子の本名を持った某著名女流流行作家(初期の作品は殆ど読んでいる)の最新作の日記がそれである(これでも十分推測が可能か)。見開いた箇所から、わたくしはカチンときてしまった。結局のところ10頁ほどを拾い読みしただけであるが(たった10頁!)、以下、独断と偏見だけの一方的批判を展開してみよう。


見開いた箇所は、旅館の食事についての言及であった。その中で、冷凍の赤身鮪を解凍した御刺身、化学調味料だらけの御漬物といった品物を一くさりする。一見豪華御馳走風に見えて、実は、画一的で貧相な旅館の食事は勘弁して欲しいとの感想である。あくまで個人的嗜好の範疇で料理の品を語るのであれば、どうでもよいことではあるが、この著者の批評にはある種の価値判断が含まれている。旅館関係者に向かって、考え方が浅墓なんじゃないのかと広言をする。要すれば、「間違った価値判断を抱えていませんか」ということを胸に手を当てて考えてみなさいという意味での価値判断の提言である。この場合、論理学やディベートの世界ではよくある反応であるところの「お前もな!」というボールが即座に返される。御馳走とは何かという思考の枠組みにおいて、わたくしは具体的にボールをこのように撃ち返すのである。解凍鮪は貧相か、赤身はとろ身よりも貧相か、化学調味料だらけはいけないことなのか、御刺身と御漬物の存在は画一的なのか、画一的の何処が満足できないのかと。著者の背景に流れている価値基準そのものがステレオタイプで貧相な思考の海路であることをわたくしは強く指摘したい。


また、別の記述によれば、自宅で陸亀を飼っていたそうなのである。その陸亀が大きくなりすぎたので、係りつけの獣医院にその飼育を寄託したのだそうだ。ある時、その獣医院が繁忙になったため、一時的に再びその陸亀を引き取り預かることになったそうであるが、彼女曰く、里子に出した子供が戻ってきた里親の心境だ、と。愛おしい、と。里親の心境とはそういうものなのか。著者の心境がまるで理解できない。自宅で飼えなくなって、野外に放す行為よりはよほど褒められたことには違いない。けれども、寄託(実質的な飼育放棄)をした時点で、飼い主としての矜持は無くしてしまったというのが常識的な受け止め方ではないだろうか。所有者としての心境であれば分かる。が、所有者イコール飼い主ではないわけであって、人間側の都合だけで行ったり来たりしているこの陸亀君が気の毒でならない。著者は愛情豊かな飼い主の幻想を自らに抱いて文章化してみたのかもしれない。飼えなくなったという時点で破綻を来しているその実情は、悲惨で貧相な様相しか示し得ない。やはり価値観が噛み合わないのである。


坊主憎けりゃ…の心境で書いているので、冷静に記述できていないが、最低限のエチケットとして、人格は否定すまい。何が癇に障るのか。それは思考(価値観)のダブルトラックである。即ち、著者が既存世界の価値判断を打破しようという思考を意識的に誇示しているその中で、古臭い価値判断なり独善に溺れているというのがわたくしの考察である。独断と偏見を更に重ねれば、エコ好きな人間にこのタイプが多く、今回とりわけ鼻につきやすかったタイプであったということである。周囲の誰かが何かを諭してあげないと、自分の思考に何ら疑問を抱いていない節があるので、どんどん増長をして、凄い人物になりかねない(そう言えば、父もずっと勘違いな著作活動をされておられたし…)。誰か諫めてあげなさいな。わたくしは、こういう人物との交流は御免被りたいが。


本日の音楽♪
「渡瀬橋」(森高千里