くたばれ涙くん

高校野球の開会式を見ているだけでウルっときてしまうのは、涙腺周辺の筋肉の衰えか、はたまた、年寄りの冷や水か。


そうは言いつつも、元来のひねくれ冠木者は、例えば、本屋の書棚に並ぶ帯文句や映画の宣伝文句で「感涙必至!!!」と「!(ビックリマーク)」の饅頭の重ね売りを無理矢理強要されようとも、およそその通りの商品であった試しがないことから、鰯の頭ほども信じない。あるいは、確かな口コミで「泣けるよ泣けるよぉ」と勧められたとしても、案の定「泣けた泣けたぁ」といったノリの良い反応を示した記憶というものがない。主観でさえ千差万別であると言うのに、感涙なんて極限の感情を万人がおよそ共有できる筈がないではないか、泣けるなんて言って勧められるものかと見苦しくも強弁をするのである。


そして、すぐに例外が思い浮かぶ。「翼はいつまでも」(川上健一)を勧めたことがあった。
ごく当たり前の感性で古き良き中学時代を経験してきた人間ならば、自分の体験との重ね合わせを実感しつつ、美しい文学の物語と香気に充たされること請け合いである。
どんなに平凡な中学時代を経験していても(大半はわたくしを含めてそこそこ凡庸な中学時代しか過ごしていないのではないかと思われるが、だからこそ)、自分の中で大切にしている琴線の部分というものがある。この物語は確実にその部分を突いてくる。その懐かしさ、愛おしさに涙が溢れるのである。したがって、中学生以上であれば、ほぼ年代を問わない。この書籍に関しては、本好きで、かつ、善人そうな人と見れば、泣けとは言わないが、「ぐっときますですよ。」とお勧めをしている。


だがしかし、書籍のそれとは対照的に、映画については、どれほどドラマティックで、波瀾万丈たっぷりの大河が流れていようとも、悲劇性喜劇性を含んでいようと、悲恋純恋大恋愛ラブストーリーであろうと、そうした劇的な内容と観ている側が流す涙の間には、何故か相関関係が必ずしも成立しない。
このため、自信を持って泣けますですよと言える映画というものが思い浮かばない。例えば、「ニュー・シネマ・パラダイス」はわたくしも含めて、万人が認める感動の映画であるが、隣に座って泣かなかった人をわたくしは知っている。


音楽ともなれば、これはもう個人的背景事情に大きく左右されるのであって、ズバリこれというものは映画以上に特定し難い。ひところ、「泣ける唄」といった切り出しが流行ったようだが、どうなのでしょうか。CD化もされたりして、レンタルショップでラインアップを眺めるのだが、正直よく分からない。
あくまでわたくし的な思いとしては、「鴨川」(馬場俊英)は、聴いていると涙が滲み出てくる。もう、その感涙の理由の9割方は個人的事情に依拠している。だからおそらく、わたくし自身しか実感を共感できない。


冒頭の高校野球について話を戻そう。
今年もいつものように郷土や所縁のある所、あるいは特集号を読んで勝手に肩入れをしているチームを応援している。
近々創立50周年を迎えるらしいわたくしの母校は、生憎甲子園に出向いたことがかつて一度もないが、今年は地区予選で過去最高のベスト8に食い込んだ。同級生が監督をしている筈。万万が一にも母校が甲子園出場を果たしたら、わたくしは、当然の如く甲子園に馳せ参じるだろう。世俗的な物言いではあるが、甲子園で謳う校歌というのは格別な味に違いあるまい。


甲子園は雰囲気のある球場である。何年か前に、一族郎党と共に、プロ野球ではあったが、観戦に出向いた(大改装前)。座席が狭く、席の並びが不規則なところはあったが、思ったよりも観客は紳士的で、けれども応援は一体的かつ情熱的で、スタッフはすこぶる親切で、観戦の醍醐味を味わえる総じてよい球場であった。初めて甲子園駅に降り立ち、蔦の絡まる球場前に立った時、我が子が密かに感涙にむせていたのを親の視線は見逃さなかった。
他球場の感想はまた別の機会に記してみたい。


本日の音楽♪
「虹が消えた日」(秦基博