イタリア、ぼったくりの果てに、、、アマルフィ

久しぶりに映画館に足を運んだ。「アマルフィ」。以前からどうしてもこの映画が観たかった、というわけでは当然ない。出演者の中にことさら贔屓の役者がいたわけでもない。貰った映画館のタダ券の有効期限が近づき、仕事帰りに出向いたところ、レイトショーで上映している映画が、「ハリ・ポタ」と「GIジョー」と「アマルフィ」の3本しかなかったというのがその理由。本当は「ディア・ドクター」が観たかったのだが、生憎レイトでは行われていなかった。わたくし同様、お仕事帰りと見られる老若男女20人余の観客に交じって鑑賞をしてきた。


たいそうゴーヂャスな映画であるとの事前の評判宜しく、確かに豪華な雰囲気を存分に満喫できる。それはおそらくこの作品の舞台となった諸々のイタリア文化遺産の賜に違いない。そして、同じく事前の評判の中で単なるイタリア観光案内映画に収まらないという声があったが、確かに映画のストーリーの中でこうした観光名所の登場の仕方に不自然さはさほど感じられないし、成金趣味的な底の浅さも感じられない。それでもやはり観客は観光客気分を胸一杯腹一杯に堪能させられる。したがって、そういう意味で観光映画には違いあるまい(批判の意味ではなく)。


映画は外交官(大使館)の生活環を横軸としている。これについてのリアリティの具合はどうなのか。門外漢なのでよく分からないが、恐らく相当にデフォルメされている。わたくしにとっては縁遠い人種であり、その偏った見方が気に入らないとは思わなかったが、どの関係者達(大使、参事官、一等書記官、二等書記官、見習い等)にもリアリティのない、足の浮わついた感覚が正直否めない。そうした中で、只一人、主人公であるYUJI織田だけが、リアリティなんてどうでもいいことなのだとばかりに、唯我独尊、足の根をどしりと張った存在感を見せつけている。彼がこの作品を自らの代表作と広言するだけのことはある。作品の中で冷徹でタフな主人公を演じる彼のハートの体温は、他の俳優達のそれよりも確実にプラス5度は高い。それを暑苦しいとみるか、周囲から浮いているとみるか、演技熱心主演男優賞ものとみるかは、ひとえに観客の捉え方一つである。


タダで観ているわけだから、あまり批判的な物言いは紳士的でないと思いつつ、作品そのものの縦軸であるところのミステリのストーリー展開について、腑に落ちなかった点を2つばかり記しておこう。原作者大丈夫か、という意味を込めて。
トリックのネタバレになるので詳細は避けたいが、第一に邦人の子供誘拐という計画の必然性が突拍子もない。誘拐によりもたらされる犯人側の計画に従って、実は大統領暗殺計画やローマ市内全域の交通システム麻痺なども巻き込む形で、文字通りイタリア国中が大騒動となる。何故そうした大騒動になるかというと、犯人側の意図といってしまえばそれまでであるが、犯人側の意図は「風が吹けば桶屋が儲かる」という図式に限りなく近い。壮大かつ遠大な作用の連続に拠って、最終的に犯人側の所期の目的を達しようというプランが立てられているのである。その作用の連続の途中で、どこか一つでも不測の事態が生じれば、このピタゴラスイッチは完成をみない。そこまでして、迂遠でリスクの高い図式を計画する意図は何なのか。例えば、国中の大騒動に伴い手薄になった警備の隙を突くといったミステリにありがちな単純な理由ではない。所期の目的を達しようとする犯人側の意図は明白なのであるが、そのための引き金としてどうして営利誘拐に拘ったのか、計画の途中で国中を大騒ぎにさせる必要があったのかについては、原作者と犯人以外におそらく誰もその必然性を理解できないのではないだろうか。そして、イタリア全土を巻き込んだ騒動の余波は何もなかったかのように映画は大団円を迎える。日本では犯人側の個人的犯意や所期の目的行動以上に、その大騒動の後始末の方が大きな問題になるのは必定であろうなあ。イタリア人はひとが良すぎるのではないかね。それとも、あの例のぼったくり騒動の罪滅ぼしとか打ち消しが負い目の伏線にあるのではないかね。などとあれこれ上映後に考えてしまった。いずれにしても、エレベーターの上昇ボタンを最初に押してみたら、1分後に突然上から大きな金盥が頭の上に落ちてきた(実はそこには数々のメカニズム作用の仕掛けが働いていたのだよ明智君)というような犯人側の自己陶酔型犯行計画にはたいそう驚かせること請け合いである。事前に誰かが原作者に「先生、それ、考えオチじゃないスか。」といってあげれば良かっただけなのではあるが。


さて、もう一点驚かされたことは、犯人側の犯行動機についてである。これもネタバレを避けつつ説明をするならば、犯人側が恨みを抱く人物がいる。それは或る意味ステレオタイプの悪人像として描かれているのであるが、冷静に考えると、犯人側がそ奴に悪意を持ちこそすれ、犯行に駆り立てるまでの憎悪を持つ理由というものが、矢張り犯人と原作者以外には理解できない。喩えて説明をするならば、わたくしが我が村の地区長だったとして、わたくしが音頭取りになって、そして多少無理をしていくらかの奉納金を工面して主催した地区の初めての盆踊り大会でどこかの不良グループが悪さをしていった。地区長であるわたくしは盆踊り大会の成功に名声を得てその後、村議会議員になった一方で、不良グループの悪さによって被害を受けたと或る人間が、地区長のわたくしに「お前のせいじゃ。お前が盆踊りをやろうなんてと言い出したからこんな目にあったんじゃ。お前が諸悪の根源なんじゃ。」と逆恨みを抱く。…こうした図式である。成り上がる村議会議員に利権のイメージを重ねて醜く見立てるのは他者の勝手であるが、実際にその不良グループの不始末の責任として監督責任以上のものを取らされては、わたくしもかなわない。映画の中では、MITSURU平田が絶頂気分の舞台上から、突然そうした言われなき汚名を押しつけられ、犯人側にボコボコにされ、無理矢理私が悪う御座いましたと自白を強要され、挙げ句に全ての責任を背負わされるというどう見ても史上最低最悪の被害者ぶりをお人好しな小市民風に演じており大変に味わい深い(きっと御当人は事件後も一体あれは何だったのか、悪い嵐に遭遇してしまったのだろうかと思っているに違いあるまい)。


前述したとおり、これはYUJI織田の映画(ここで用いた「の」は文字通り所有の意味を表す)である。あと一年もすればテレビ放映されるのではないか。その時に、冷静にこの作品のストーリーを分析して、壮大な犯行計画と非論理的犯行動機を掘り下げつつ、実は一番の被害者であった人物が誰であったのかについてどれだけの人が思いを寄せてくれるだろうか。続編化もおよそ間違いあるまい。今回はイタリアであったが、今度はどの国が必然性のない犯行計画で国中しっちゃかめっちゃかの大騒動に巻き込まれるか、そして、その国民の肝要の度合いは如何辺か、それらも大変に興味深いところである。但し、わたくしが観るとすれば、再びタダ券が手に入ったらの話ではあるが。


本日の音楽♪
「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(サラ・ブライトマン