代議士の皆様が雛壇の上で切歯扼腕をする前に

そう遠くないという将来(分かり易く言い換えれば、「近々」)に予定されている総選挙において、対立軸というまでには議論が相当程度に熟しているとは到底思えないが、一つの分かり易い選択争点のテーマとして「官僚政治の打破」が掲げられている。


'change'というものが全世界的に国民受けしやすい昨今の風潮は理解が出来るし、それがかつては55年体制の打破だとか言われていて、その一方の側が名目上いつの間にやら表舞台から消えて、そこでアンシャンレジームの対象が実質的な意味での官僚支配に矛先が向けられていくというのは或る意味必然的であるような気もする。


少なくとも、当事者にルールを作らせようとする大いなる矛盾を抱えた「政治腐敗の問題」や、本当の意味や意義を誰も理解してはいそうもない「地方分権の話」をその争点に掲げて、有権者の距離感を惑わせたり、誑かしたりするよりは、官僚憎しと言えば、「郵政民営化」に似て、卑近ではあっても、余程口当たりの良さそうなテーマ設定ではあるようにも思う。


但し、わたくしはこの官僚打破のありようや具体的な方策について、その道を進めることが正しい選択かつ方向性であるのかどうかについては、現時点でまるで分からない。
それはおそらくこの同時代に生きる誰にも分かるまい。


その打破に伴って、期待される作用もあれば想定外の副作用も見込まれる中にあって、社会あるいは日本トータルとして冷静に客観視をし、こうした施政の評価を行うためには、それなりの時間とそれなりの洞察力が必要である。
したがって、ここでは、この官僚打破の是非そのものについては、論じない。


本日、記しておきたいのは、この官僚政治に纏わる2つの同日付の記事があったことである。一方は随分外側からの視点、もう一方は現場の内側からの眼線である。
http://news.goo.ne.jp/article/ft/politics/ft-20090706-01.html
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090706/lcl0907060304004-n1.htm
そういえば、これとは別に、このような記事もあった。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090703/164962/


奇しくもこの3つの記事を並べ読み較べてみると、どの記事内容がどうであるという直接個別の論評は避けたいが、彼我の底の深さ浅さというものがよくよくに分かって大変に興味深い。
デモクラートが衆愚に陥りやすいとも一概に思わないし、一方で、こうした彼我の違いというものをよく理解をした上で有権者諸氏が投票所に足を向けるようになったのであれば、それはそれで大変に末怖ろしいような気もしないではない。


そして、上記の或る記事中にもある通り、これは「政治家と官僚とのゼロサムゲームではない」というのは正論であるが、一方で、政治家と官僚との相対的関係性そのものをも意味している事柄なのであるということは、流石の有権者諸氏もそれ相応に認識しているのではなかろうか。どうだろう。


而して、この3つの中の特に2つの記事を読み較べてみると、政治家と官僚という一方の当事者である側は相当に強かで尻尾を掴ませない習性というものがよく理解をできるし、もう一方の当事者であると或る側(奇しくも筆者の一人が当事者にもなっている)が何という短視眼で思考をしているのかということをよくよくに実感できるのである。それにどれだけの人が気付いたであろうか。


それを嘆いても今更仕方あるまい。そういう政治家を選ぶ民意というものもその程度のものであったということではある。
そして、この事実は、それはそれとして、腐らずに、また、高望みをせずに、「わたくしたちの足下を直視なさい」という天の声でもある。


本日の音楽♪
「グッデイ・グッバイ」(キリンジ