水菓子考

最近は、「コンフィチュール」とか「コンポート」とか、何だか意味のよく分からぬ御洒落な言葉で着飾って、さもハイカラなマドモアゼルぶりよろしく振る舞っている果物たちではあったが、例えば、テーブルの上にある果物が傷んできたときの大原則は、煮る。兎に角、ひたすら煮詰める。ジャムにしてしまうというのが基本であった。


実は傷みはじめはそのまま食べても結構いける(傷みはじめだから、より美味しい)のであって、煮詰める必然性には乏しい気がしないでもないのであるが、捨てるよりは格段によろしいし、また、煮詰めざるを得ないケースというものも確かにある。
それは、そのまま食べても全く非常に美味しくない場合。全然甘くない。味がない。硬すぎるなど。


今でも、マルメロなどの専用果実はそうであるが(誰も生では食べまい)、甘露煮(コンポート化)に走るかつての典型例で云えば、はしりの桃。
今頃の季節の出始め時期が正にそれに当たる。可憐でキュートな外観に騙されて、手に取り、皮をむき、口に入れたその刹那、まるで野生のダイコンのような下卑々々な味わいに大いに幻滅をしたという経験も少なくない。
そういった場合は、即座に甘露煮にしてしまうのであるが、缶詰用の桃というものは、逆にガチガチに硬くて甘くないほうが寧ろ加工に適しているということなのだそうである。


桃に限らず、昔は、不味い果物というものが正直多かった。
北国の地方都市に住んでいると、蜜柑であるとか葡萄であるとか枇杷であるとか西国の産品の良水準のものは、中央政府が収奪をしてしまって、地方にまでそういった良いものが廻ってこなかった。
蜜柑は生であっても冷凍蜜柑よろしくスっぱいか水っぽいものだと思っていた。初めて蜜柑の産地で食べた蜜柑はいままで食べていたものとは全く別な味がした。


西瓜は、といえば、中が空洞であればまだしも、買ったばかりだというのに、腐って溶けていて、包丁を入れた途端、それはそれは大変な液体が外に流れ出してきて、家中パニックになった経験は、トラウマのように消えない。あの超絶な臭いとともに。


また、現在出回っている果物の主力品種の水準の高さといったら。かつての品種を懐かしむ声も聞こえてこないわけではないが(例えば、印度林檎、夏蜜柑など)、席巻されるのには訳があるわけであって、現在の品種が絶対とはいわないが、大したものである。
苺などを念頭に置いてみれば宜しい。味、見栄え、保存性どれも格段に向上をした。国産キウイ、国産マンゴーといった新参者然り。
日本のブリーダーや栽培家達の労苦と偉業に感謝をすべきであろう。
いずれにせよ、品種にしろ、品質にしろ、昔に較べて格段の進歩があると思う。


つまるところ、本日のわたくしの主張は、食の世界における格段の進歩、進化は、果物を典型にして見ることができるということである。
果物畏るべし。


本日の音楽♪
「逢いたくて逢いたくて」(園まり)