恨むんだったら法律と籤運と日本人であることを恨むべき(但し、恨んでも浮かばれることは決してない)

先般、我が国で新たな裁判員制度が開始されたことに伴い、メディアにおいて、数々の批判的な見解の内容を目にする。その数が非情に多いので、今回は特定をしないが、大体は「自分が選ばれたら正直困惑をするだろう」→「果たして制度としてうまく回るだろうか」という個人的発想から演繹的に敷衍した(困惑→制度への疑問)図式でその感想を述べている。
結論から言えば、公的メディアの俎上で、ぐだぐだうだうだとそうした個人的感情を並べている見解にはほとんど読むべき価値はない。貴方様が裁判員に選ばれた場合の貴方様の仮想的な御気持ちをその場で聞かされても、制度を再考する上では、何の参考にもならない。
国から無理矢理にやらされるという意味においては、いっそ「日本国民の4大義務化」と定義してもよさそうなものではあるが(そう云った論争を以前見掛けたことがある。政令で免責規定を置いていることをもって義務とは看做していないような国会論争をその後で読んだが)、いずれにせよ、これは「選ばれたから喜んでやる」とか「嫌々やるしかない」とかと云った心持ちの問題ではない。法律で「やれ」と指名された以上、よほどの事情がない限り、やらざるを得ないのである。少なくともそこに個人の感情は存在し得ない。
「他人の罪を裁くことの重さに耐えきれない」という意見もある。先程の政令に基づく免責事由の一つとして理論的にはあり得るとの整理(要すれば、思想信条の自由との憲法には抵触せずとの見解)がなされているようではあるが、思想信条としてのそういった考え方をわたくしは頭ごなしに否定はしないものの、厳密に言えば、「他人の罪を裁くことが自分の信条と相容れない」ということと「他人の罪を裁ける自信がない」ということは似て非なる考えである。後者は寧ろ「やったことがないので分からない」という能力論的考え方と混同をしている節がある。
籤で偶然に裁判員に選ばれた国民は、特にその才能や氏素性が優れて選ばれたものではなく、市民の代表として市民感情を代弁することを期待されて選ばれたものである。斜めにものを見て生きているわたくしでさえ、そうした市民感情を特別な能力として捉えてはいない。軽い気持ちで行える労役では決してないが、市民、国民感情を十分に意識していれば(それは言い換えれば、全体と個の軸を持っているということでもある)、それが即ち裁判員としての自覚でもあり、制度として何とか動かすことは可能ではないかと考える次第である。
全体主義に染まれとは終ぞ思わないが、この際、血の通った司法に協賛をする機会と捉え、また、国家や市民というものをより身近に意識をしてもよいように思える。

本日の音楽♪
「THINGS TO HIDE」(LITTLE CREATURES