どうぶつだいすき

【1】
わたくしは、自らのことを「動物大好き」な性格であると正直なところ思っているのであるが、例えば、湾に迷い込んだ迷子鯨の話や、世界遺産観光地で増えすぎ餌やり禁止で弱ってしまった鹿の話などを耳にすると、即座に、「掴まえて食べてしまえばいいのに」と思う。車に轢かれたヤンバルクイナも鮮度がよろしいうちならばローストできたろうにと口走ってしまう。ジビエは旨いに決まっている。食べるなら、旨いうちに調理をするに限る。周囲の雑音が気になるなら、こっそりやろう。もちろん、彼らを腹の中へと導く際には、有り難うの気持ち、感謝の気持ちは忘れてはなるまい。こうした出来事を昔から「天の巡り合わせ」「天からの授かりもの」と呼んで珍重してきたのである。


【2】
もしも仮にわたくしの傍に、動物そのものというよりも実は「Animal Walfare大好き」な性格の人がいたとしたならば、こんなわたくしはその人にきゅうきゅうに糾弾をされて大変な目に合ってしまうことだろうなと思う。得てして、そういう人は喧しいし五月蠅い。幸いにも、そうした愛護団体関連の知り合いはわたくしの周囲にはいない。終生知り合いたくないので、そういう人が増えなければいいなと思う。しかしながら、所謂文化的な活動というものをしている著名人や一部の政治家の類でそういうことに積極的に血道を上げている人々が存在するのを遠目から眺めていたりする。そういう人々の振る舞いには、全く恥ずかしがる気配が微塵にも見られない。


【3】
そうしたそちら方面の方々は、まるで正論を吐くかの如く、動物の代弁者としての立場を堂々と語るのであるが、そういった姿勢にわたくしは驚きを禁じ得ない。動物が人間と全く同じ感情思考を持っていることは客観的に何も証明されていない。おそらく語っているのではなく、騙っているのである。例えば、柴犬が食餌を目の前にして尻尾を一生懸命振っている。その姿を見て、まあ嬉しいのねと感情移入をしてしまうかもしれないが、その柴犬に吹き出しをつけてあげるとすれば、「めしだめしだめしだわあいめしだめしだめしだわあい」といった思考なのではないかとわたくしは勝手に類推をする。「人生、感に堪えず」などとは決して思っていまい。人格投影は行き過ぎかと思う。


【4】
鯨や鹿を可哀相と思うのは感情移入者の勝手であるが、それはそちら様の都合で、だからどうなのだという公共的な話には全く発展しない。勿論、彼らを胃袋に入れてしまったことによって、自然環境が格段に悪化するわけではない。あくまでも動物の身になって考えるという(どうにも勘違いなハタ迷惑な)感情移入なのである。可哀相だから何とかしてよと言っている連中こそ、何とかして欲しいものだとわたくしは常々思っている。欧米では一定の力を持っているこのAnimal Walfareが日本で何らかの権利(市民権)を獲得していくことにわたくしは憂慮をしている。今以上の愛護法の改正は要らない。連中はわたくしたち人間に対しては決して優しくないのだということを肝に銘じるべきである。



本日の音楽♪
「母と子の絆」(ポール・サイモン