「クルーグマンって、あのコラムニストのことでしょ?」

わたくしの頭が固いのか、それとも出来が悪いのか、はたまた捻くれているのか。そうは思いたくないので、やはりコラムニストのせいにしてしまうのであるが、何度読んでみても、さっぱり分からない。
産●新聞「正論」欄のコラムである。http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090422/fnc0904220339000-n1.htm


これまでにわたくしが行ってきた主張の中にも登場したことのある某竹藪識者(日本人コラムニスト)が、今回述べるテーマは「緊急経済対策15兆円に異議あり」という内容である。
前代未聞の規模の緊急財政支出ということもあり、Wise Spending(賢い支出)の観点から様々な議論が巻き起こっている。それ自体は大変に結構な現象であると思うが、今回のこのコラムニストの異議に関しては、わたくしの理解からは程遠いところにある。
さっぱり分からないこのコラムニストの主張する異議は、3点ある。


第1点目は、総額15兆円に決めたことについてマクロ的政策がないことを批判している。マクロ的政策とは、需給ギャップから必要な政府の支出(翻って、政府の役割)を導き出すというプロセスのことで、これを称して「総需要管理政策」と呼ぶのだそうである。(※本来の意味は、政府が財政・金融政策を適切に用いて総需要を管理し、景気の調整、完全雇用、国際収支の均衡、安定成長などの経済目標の達成をめざす政策のことを指す。財政政策と金融政策のポリシーミクスが基本となるが、本コラムでは財政政策に主眼が置かれている節がある。)


マクロ的政策の欠如の根拠として、今回のパッケージが個々に申請のあった政策の積上げ方式によるプロセスのものであると批判をしている。わたくしには、マクロ的政策を採れば積上げ方式にはならぬとの理由がさっぱり分からぬものの、それはさておき、無駄な支出、無駄遣いを避けねばならないことは自明の理である。


まずわたくしの抱いた疑問は、どうして「総需要管理政策」を採れば、この無駄遣いが避けられ、積上げ方式ではそれが不可能なのだろうかという点である。
かつてのような国債発行枠何兆円とかといったキャップを嵌めればよいのだという意味ではよもやあるまい。


一方で、積上げ方式とは言え、15兆円という総枠が検討開始当初から「ありき」であったということは他のメディアでも多く喧伝されているところである。
したがって、財布の紐を握る大蔵の守が財政均衡等の観点から箍となるキャップをかけていない筈がないとわたくしなどは考える。そこにマクロな視点がなかったとは思えない。
たまさか一橋が掲げる金科玉条の経済理論を大蔵の守(TEAM東大法)が知らなかったとでも言いたいのであろうか。


では、大蔵の守が有するマクロな視点と「総需要管理政策」との違いは何か。それは、突き詰めれば、わたくしたちが大蔵の守を信用できるかどうかの違いである。
大蔵の守を信用する側に立つわけではないが、そうであるならば、ことさらここでマクロとか総需要管理とかといったもっともらしい言葉を勿体振って持ち出す必要は何もない。「大蔵の守が密室で決めたから、ワシは不満なのだ」と言えばよいのである(その後の国会審議を無視している気がするが)。


また、総需要管理政策というものは、政府の役割を精査することであるとも言っている。それによって、無駄な支出を抑える効果は否定しないが、それは個々のミクロレベルの政策の支出をしっかりチェックするということとは違うのだろうか。そうであれば、後段のWise Spendingの議論に包含される話であり、やはりマクロがどうたらなどと言う必要はない。
「個々の政策をしっかり精査すべき。そうでなければ、財政規律放棄。」と言えばいいだけの話である。


マクロ的視点の欠如を大上段から振り翳して非難しているのを見るにつけ、それはマクロ経済学者なる業者が自らの商いのフィールドを無視されたことに私憤しているようにしか捻くれ者のわたくしには思えない。
このコラムニストが権勢を揮っていた当時の官邸会議がそういう理論が好きだったというだけの昔話であり、当事者は否定するのだろうが、その理論も結局は後付的に補強していただけのものに過ぎない。検討の順序として、「マクロ」ありきではないのである。
繰り返すが、無駄遣い防止が究極のゴールなのだから、自らの対案(マクロ的手法)がどうしてその無駄遣い防止に繋がるのかということが主張の本線となるべきであり、その点をきちんと説明してほしいところである。


第二点目は、当初の年間通常予算を上回る補正予算額を計上しても、それを一定期間で使いきることは容易ではないという主張である。
これに対して、わたくしは一定期間で使い切るための反証材料をいくつか例示できるとは思うのであるが、それはさておいても、わたくしにとっての疑問は、「そうであるとして、現在の計画案の中身の何がいけないのだろうか」ということである。


多額の予算を計上していること、それが補正予算であることを問題視しているのであれば、それは所与のスキームの話であり、追求しても詮無いことである(そこまで駄々をこねているとは思わないが)。
また、一定期間で使い切るということは、あくまでも執行上の問題であって、現在の計画案の中身の是非とは次元が異なる問題である(計画と執行が無関係とは言わない)。


書いてないことを勝手に類推して語るのも変であるが、特定の省庁に年間予算を上回る予算額が計上されることによって、その省庁の天下り団体が潤って、私腹を肥やすということを言いたいのであろうか。それとも、その特定の省庁の能力を超えた過剰な予算配分が怪しからんという批判なのであろうか。
そうであるなら、そのようにはっきりと書けばよい。そうすれば、「この人はあの役所が特に大嫌いなのであるな。」ということがはっきり分かる(あくまでも好き嫌いのレベル以上に広がらない)。
因みに、今回の15兆円の中には、象牙の塔に流れる予算(R&D)も前代未聞の多額の経費が計上されているようである。それは中身的にも執行的にも問題ないということなのだろうか。


第三点目は、官僚依存で立てられた計画案であるという批判である。要すれば、1990年代に同様に官僚依存の財政支出によって膨大な国家赤字を抱え、経済も浮揚してこなかったあの悪夢の二の舞になるという主張である。
90年代の失敗は事実として理解できるが、それと官僚依存との因果関係がよく分からない。このコラムニストの論旨で行けば、過去の全ての失敗が(そして、全ての成功も)官僚依存を原因と指摘することが出来そうな気がする。
その前に、90年代から活動をしていた政治家先生がプライドをいたく傷つけられ怒り出しそうではある。


繰り返すが、税金の無駄遣いは避けなければならない。
そうした意味に於いて、Wise Spendingのありようについての議論が囂しくなるのは結構なことである一方で、上記3つの指摘は、私憤こそあれ、Wise Spendingとの関係性が些か希薄といわざるを得ない。したがって、官僚批判が通底にあることは理解できても、「今回の15兆円の一体何が問題なのかしら」という疑問符しか残らないのである。


このコラムニストのWiseな対案は、15兆円の玉石混淆具合を提示することに依拠するのではなく、「消費者や企業にお金を戻すこと」しかも「その使い道を出来るだけ自由にすること」である。
そうした観点から、法人税減税を模範施策として掲げる(※「消費者」といいながら、所得税とは決して言わないところがミソでもある。自動車税が法定税率の2倍徴収され、逆に固定資産税が同様に何十分の1しか徴収されていない状況は…)。


これまでは官僚がお金を使う仕組みであったということを問題視し、官僚が私腹を肥やしていることに恰も義憤の情を抱いているかのようにも見えないでもないが、そもそもに立ち返って考えてみれば、私腹は当然論外としても、国家の機能の一つは所得再分配であって、批判されようがそれは必須の使命である(但し、「小さな政府」の論者はその機能も極力限定したいと考えている)。


わたくしの見解を申せば、社会保障であればいざ知らず、「薄く広く、しかも無色」が景気対策上Wiseであるとは到底思えない。
したがって、緊急経済対策ということから必定、それぞれに配り方の異なる、「成長産業への傾斜配分」、「ナショナルミニマムへの社会資本投資」、「セーフティネット対策」等といったことが柱になると思われる。今回の景気対策でそういった初歩的検討プロセスが欠如しているとは思えない(同時期に与党が経済戦略のようなものを出していた)。
http://www.jimin.jp/jimin/seisaku/2009/pdf/seisaku-010a.pdf


例えば、成長産業への傾斜配分という以上は、ある種の恣意性(選別)は働かざるを得ない。依怙贔屓といってもよい。公共投資叩き派のように、特定の業種にのみ金銭が還元されていく仕組みを問題視する声があるが、そういった依怙贔屓が即いけないということではないのであろう。


あるいは、社会資本投資に関してこのコラムニストは、国際ハブ空港化のために羽田に公共投資をせよと言っている。関空や千歳ではなにゆえに駄目なのか。羽田にお金を掛けることは宜しくて、離島に橋を架けるのは怪しからんということなのであろうか。
さらに、セーフティネットに関して、失業保険制度の充実は宜しくて、農民の減反参画へのお手当増しは怪しからんと考えているかもしれぬ。


わたくしは詰まるところ、Wise Spendingの判断の拠り所は、公平性でも公正性でもなく、公益性であると考えている。そうした観点から、羽田と千歳の比較、あるいは、失業者と農民への支出の比較といった点で、公益性の観点からの議論を冷静に行えるのは一体誰なのかということがポイントになるのであると思う。


その答えを導き出せるWiseな賢者は、少なくとも一介のコラムニストではあるまい。かつて権勢を揮った官邸会議でもないとわたくしは思う。
では誰か。誰もが答えられる当たり前の回答が用意されているのでここには記さない。そして、そういった議論の機会が欠失しているとも思わない。


今回の15兆円対策への異議を巡る議論において、Wiseでないことを具体的挙証を持って批判することは意味のあることと考える。しかし、一私人が単に「羽田に金を出せ、法人税を減らせ」といった類の発言をする限りにおいては、昔から繰り返されてきた「利益誘導合戦」や「陳情合戦」と何ら違わないということを保証する手だてが何処にもない。百歩譲って、俺に寄越せとは言っていないのかもしれないにせよ、俺に決めさせろと言っているだけである。つまり、15兆円への対案としては屁にもなっていないということである。


今回のコラムは、理のある内容があるのならばせめてもであるが、遺憾ながら遠吠えにもなっていないようである。
曾て権勢の中心に居たこのコラムニストは、野に下ったのち、これからいったいどこまで斜滑降を続けていくのであろうか。その執念は認めるが、斜め加減具合には、情緒を伴うドラマさえ感じる。


なお、「メッセージ性に欠ける」という批判も目にしたが、メッセージの受け取り方は人それぞれである。その総意として、景気がある。当たり前の話である。
個々の受け取り方を念頭に置いているのであれば、そもそもこの今回のコラムがわたくしにとって「メッセージ性に欠ける」ものであったということである。
問題の所在のはっきりしない今回のコラムを読んで、経済学というものは、斯くも実学としての身を纏っていないことを確認した。
こうしたコラムだけで学としての身が立つのであれば、やはりノーベル経済学賞は従来から批判があるように即刻廃止をしたほうがよいと、わたくしなどは改めて思った次第である。


本日の音楽♪
「東京猿物語」(いきものがかり