続・温暖化異聞

相当旧聞に属する話題として、英国の旧閣僚の一人が地球温暖化問題についての異論を唱えていた。異論の中で主張をしている科学的な見解については、旧来の懐疑派の主張と大きく代わり映えがしない内容の中で、「グリーンは新たなアカ(共産主義)だ」という主張が耳に残った。
http://premium.nikkeibp.co.jp/em/source/13/03.shtml


その旧閣僚氏の主張とは別の意味であるが、我が国において所謂左側の翼に属する人々が環境問題に実に熱心であるということは、彼らの活動の変遷や状況を見ても、周知の事実といえると思う(百人が百人そうだとは言わない。以下同)。
なにゆえに「左」の思想が「環境」へと結び付くのかということについては、何か本質的な特質というものがそこに隠されていそうな気がしないでもない。尤も、彼らのイデオログを掘り下げ調べ上げるほどの関心は持ち合わせていないので、この際それはどうでもよいこととして、したがって、それはそれとして、いずれにしても、最近の彼らは環境の二文字が主食といって過言ではない。要するに、「補色相好む」ということである。


それでは、もう一方の対極に位置する右側の翼の人々はこの環境問題をどのように考えているのか。
国体護持を(無論反共も)党是とする、と或る諸派団体のHPをこっそりと訪れ、彼らの政策方針を覗いてみた。
すると、そこに並ぶ言葉は、《ゼロエミッション》《自然農法》《太陽光、風力発電》等々。言葉だけを眺めれば、右も左も何の違いもない。
因みに、《反原発》ともあった。安全保障のための核兵器の自国製造(自衛のための核武装)は可能なのだろうかなどと要らぬ心配をしてしまったが、この際それはどうでもよい。


実は、地球温暖化に関しても同様のスタンスであって、彼らはその対策として《脱石油》を掲げ、こと環境問題に関する限りにおいては、右と左のイデオロギー上の対立は、全くといってないようにも見える。東と西に向かってそれぞれ旅に出た旅人同士が地球の裏側でばったり出会ってしまった、みたいなものか。
しかし、対立をするよりも皆が同じ方向を向いている状況の方が余程歪(:いびつ)で危険なのではないかとわたくしなどは思ったりするのであるが、世界に目を向けると、チェコの大統領はきちんとそうした懸念を示す発言をしている。
http://premium.nikkeibp.co.jp/em/source/12/index.shtml


チェコのクラウス大統領は、「地球温暖化は、自然科学というよりも社会科学の問題であり、地球平均気温のコンマ数℃の変動よりも、むしろ人類とその自由についての問題である」とこの問題の肝になろう箇所を的確に指し示している。当然の事ながら、この発言に対する世界の各方面の反響も大きい。
他方、日本ではどちらかと言うと、「温暖化異聞を読む」(3月10日付け同表題名を参照のこと)でも記したとおり、アカデミックな意味での事実関係の有無(地球温暖化は本当に進展しているのか、その原因は二酸化炭素なのか、今後危機的状況になりうるのか等)段階での議論が囂(:かまびす)しい(※1)。


クラウス大統領が述べるような、自然科学の事実の是非よりも、それを社会としてどのように受け止めて、実際にどのように行動していくかという問題により焦点が当てられるべきであるというのは、真に的を射た見解であると思う。
そうした意味において、日本は社会での受け止め方が一様であり(何度も繰り返すが、ビジネスとしては様々な戦略が渦巻いている※2)、どうしてもこの国の体質のvulnerabilityさという瑕疵が目についてしまう。ましてや、オバマノミクスに基づく米国の環境政策方針の変更を「日本の主張(KYOTOプロトコル)への摺寄り」と捉えて、自己肯定を強める空気さえ存在する。


冒頭の「グリーンはアカ」に話を戻せば、日本が共産化、社会主義国家への揺り戻しがあるとは言わないが、寧ろ「アカ狩り」「魔女狩り」といった集団ヒステリにも似た視野狭窄や思考障害という隘路に陥っている状況にあるように思える。
若手コメディアンがコントの中で「エコバッグを入れるためのエコバッグ、そのエコバッグを入れたエコバッグを入れるためのエコバッグ、そのエコバッグを入れたエコバッグを入れたエコバッグを入れるための…」といった持ちネタを披露しているが、その状況と正に変わりないスパイラルな症例と言えはしまいか。


日本の中でも改めてシカと議論をする必要があると思うクラウス大統領の発言要旨をここに記しておこう。

●気候の小さな変動は、遠大な制限的対策を必要とするものではない。
●自由と民主主義への抑圧は避けるべきである。
●人々の行動に枠をはめるよりも、皆が望むように生きることができるようにしよう。
●科学を政治的テーマとして扱うことに抵抗し、「科学的合意」という表現に反対しよう。それはいつも、声高な少数派によりもたらされるもので、声なき多数派によるものではない。
●「環境」について語るのではなく、私たち個人の行動のなかで気を配ろう。
●人間社会の自然な発展を謙虚に確信しよう。発展の合理性を信頼し、(あえて)阻害したり方向を変えたりしないようにしよう。
●破滅的な予測に怯えず、それが人間生活への不合理な介入を擁護したり促すことのないようにしよう。

※1:過日、おかみの研究機関である国立環境研究所環境リスク研究センターの一般向けリスクコミュニケーションのHPを覗いた。こちらの研究者のご発言は、なべて、学問的に事実と異なることを言っているとは思わないのであるが、自らの研究成果が社会にとってどのような影響をもたらすのかについて直接語ろうとはせず、自らの研究を正当化するばかりの姿勢であった。(例えば、或る物質や生物が健康被害や環境被害があるかどうかという事実関係だけに拘泥をする姿勢、だからこの研究は必要なのだといったものである。自らの研究の正当性は査読付論文誌で証明されたし。)Regulatory Scienceを標榜している筈の彼らでさえこの為体であるから、殊更に気が滅入る。http://www.nies.go.jp/risk/mei/mei001.html


※2:環境ビジネスを全面的に肯定する立場を支持しているのではない。寧ろ例えば、排出権取引といった実体流通のない徒花的な商売は、昨今さんざ叩かれた「金融工学」のそれとどう違っているというのか、また、エコポイントの環境への影響はLCAで見れば、なかりせばの悪影響の加速を減速する効果はあっても、全体として絶対値マイナスの効果に傾くに違いないのではないか等々、わたくしは甚だ疑問に思っている。


本日の音楽♪
黒いお砂糖も黄色いお砂糖も白いお砂糖も
「Sugar Baby Love」(The Rubettes)