「コンバトラーV」の操縦者は電磁波過敏症よりも、バトルでの負傷リスクを余程心配したほうがよろしからずや、ということ

http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090405/biz0904051801003-n1.htm
もやっとする。

【日本の議論】電磁波は本当に危険なの?

送電線や携帯電話、IH機器−。電流が流れると発生する電磁波(電界と磁界)が健康に与える影響を懸念する人が増えている。

いきなりの書き出し内容に何か嫌な匂いを感じたが、その後を読むと、必ずしも狼少年的な偏見にばかり傾いてはいないようなので、その点は良しとするにしても、やはり、もやもやっとした読後感は消えない。
電磁波は人体にとって危険なのかどうかという記事。言ってみれば、お定まりのテーマ。そして、「危険だ」という声と「危険ではない」という声の両論を併記するお定まりの記事内容である(【日本の議論】というテーマ設定であるのだから、当たり前といえば当たり前)。
このお約束の定法に則ったオーソドックスな記事内容に対して、何がもやもやっとするのかといえば、こうした両論どっちつかずのお定まりの書き方(要すれば、「判断の不在」)というものに、わたくしが心底ウンザリしてしまっているということに尽きるのかもしれぬ。それが、或る想定ハザード(特に新しい種類の想定ハザードであった場合)のリスクについての論評であるから、尚更なのである。



本当に、電磁波リスクの議論はアカデミアの中でもやもや紛糾しているのだろうか。
記事の中では、これまでの科学的知見の中から、「国際的なガイドラインを守っている以上は、癌等のリスクが増加するという証拠は今のところ見つかっていない」というのが世界共通的な見解(世界保健機関WHO)であると解説をする。
「電磁波が危険だということを示す新たな証拠が今後とも見つからないということは、誰も証明できないわけであるのだから、このことをもってして安全であるということは言えない。」などという主張をする者は、悪魔の世界以外に存在し得ない。
定説を覆す確かな新たな科学的根拠が見つかった段階で、「WHO見解は怪しいぞ」と追求をすればよろしいと思うのだが、よく分からない証拠データが(吟味前の段階で)いろいろ出てきたとしても、あくまでその段階では、紛糾もへったくれもないわけであって、そういうレベルの両論の証拠の並べ方・見せ方は、もやもやの煽り過ぎというものではなかろうか。
両論併記と言いつつ、実はこうした欺瞞的手法を秘めた示し方しかできないのであれば、陳腐な公平・平等意識に囚われた両論併記などはやめた方が良い。体細胞クローンなどでもこういった極めて妙な両論併記がマスメディアの上では屡々開陳されている。
(参考)
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/090106/sty0901060114000-n1.htm



尤も、当該記者はおそらく判っている。

こうした中、WHOは1996年、電磁波の潜在的な健康リスクを調査するプロジェクトをスタート。日本を含む60カ国以上が参加、リスク評価を行ってきている。2002年には、WHOの付属機関である国際がん研究機関(IARC)が発がん性評価を行い、電磁波のうち、低周波の磁界を「発がん性があるかもしれない」(人への発がん性示す証拠が限定的で、動物実験で十分な証拠がない)と分類した。これは、コーヒーや鉛、ガソリン、クロロホルムも同じ分類にあたるという。
 2007年には、低周波の磁界と小児白血病との間に「因果関係があるといえるほどの証拠はない」とする見解も示した。

と書き、さらに、

100%の安全はない。どこまで「安心」対策を行うのかはコストも伴う。科学的な結果を踏まえたうえで、判断するのは国民になってくる。

とあるとおり、電磁波を巡る議論が、アカデミアにおける「安全」性の問題というよりも、実社会における「安心」の問題なのだという捉え方をしている。
わたくしもそれには同感ではあるが、世の中のあらゆる事象において100%絶対安全ということを保証するものが存在しない以上、頑迷な科学者は「大丈夫」ということを最後まで言わなくても決して責められはしないが、わたくしたち素人が、日常生活を送る上で「大丈夫」なのだということは、口にしても判断をしても差し支えないことであるとも、わたくしは考えるのである。
そのことこそ、記事にある「安心」の問題であって、それは一定の「安全」性が保証された上での「安心」であることは言うまでもない。



その「安心」は詰まるところコストとの兼ね合いなのだと記事は指摘するが、正確には、リスクがもたらすコストとベネフィットとの兼ね合いである。要すれば、『損得勘定』。携帯電話やIH機器等の利用がもたらす利便性を捨ててまでのリスクコストというものをどのように考えるかということである。
わたくしたちの実生活の判断行動は、凡そ損得勘定(算盤ずく)の上で成り立っている(そうではない義理人情や無私の世界も存在します)。
例えば、自動車と交通事故の関係、あるいは、茸料理と食中毒の関係、ジョグと心筋梗塞の関係などで考えてみれば、判りやすい。
裏側から言えば、比較考量できるベネフィットとリスクコストを目の前に提示されて、初めて真剣な判断が出来ると言うことである。
また、新技術に対して、一定の安全性が保証されるものであったとしても、それを受け入れる人と受け入れない人の両方が存在しあうことは至極当然なことなのであって、ことさら両者の見解の違いを大きく騒ぎ立てることもあるまいというのがわたくしの意見である(はっきり言えば、そうした騒ぎ方は下衆の何とかのようなものでたいへんにみっともない)。両者の見解の違いというものを、その前提であるところの、一定の安全性の保証の是非と混同した議論に見せかけることは、何をか況やというべき煽動者である。
(参考)不毛なやり取りの参考資料:
http://www.ookawaramasako.com/?page_id=698
新しい技術の進歩にわたくしたちが追いつくことができずに右往左往をして、紛糾をしている現代のこの縮図は、自戒を込めて被虐的に言うのであるが、わたくしたちが極めて大人げなくなっているという事実の証左でもある。



「安全」と「安心」を峻別する思考回路を折角提示しているというのに、こうしたお定まりの書き方というものによって、導入コストの嵩上げ方向にしか働かないのではないか、無駄な経費支出につながる恐れがあるのではないか(例えば、BSE全頭検査といったものと同じような無駄な出費の掛り増し)ということをわたくしは懸念する。
その上で、この定型に替わる新しい書き方を提案するとすれば、例えば、

①現段階では、世界的な共通見解として、一定条件の下では、電磁波の人間への健康に対する明確なリスクは何も示されていない
②新しい知見集積のために、例えば、幼児への影響調査を現在実施中
③一方で、電磁波の影響を憂う声があることから、国際的な電磁波出力のガイドラインの他に、送電線等の地中埋設等の取り組みを実施している国もあり
④このことに伴うコストは、我が国においては、××の小売価格に転嫁される可能性があるが、消費者はそれの受け入れを容認する[難色の]意向
⑤また、現に「電磁波過敏症」を訴える人も存在することから、彼らの症例のメカニズム把握と解明が急務の課題(症例の明確な疫学的根拠は未だ示されておらず)

といった纏め方もあるだろうにと思う。そういったお行儀の良すぎるシナリオでは、矢張り「銭にならぬ」(読者が興味を持たない)ということなのだろうか。
くだんの電磁波問題に関しては、安全性の見解はひとまずクリアできるとして、市民の安心への要求をクリアするためには、これこれのコストがかかってしまうのだが、さて一体どうしたものか、というのが読者に投げかけるべきクエスチョネアであろうとわたくしは思う。
そして、WHOが何と言おうが、電磁波過敏症を訴える人が現に存在するという事実が、わたくしにとっての最大のミステリなのである。



本日の音楽♪
夢で逢えたら」(吉田美奈子