視点

ミステリを愉しむ基本作法の一つに、誰がその文章を書いたのかというポイントが挙げられる。(『著者に決まっているじゃないか』などとすかさず至極当然の突っ込みをせずに今暫くこの文章に目を通していただきたいところである。)つまり、一人称で書かれたものなのか、二人称なのか、三人称なのか、あるいは、犯人の手記か、探偵役の目線か、被害者の視点か、第三者の視点か、それらの組み合わせか。そうした視点を意識しながら、著者の仕掛けに思いを馳せ、騙されまいぞとゲームの駆け引きを愉しむわけである。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091119/trl0911191308003-n1.htm

 「むかつくんです」−。宮●県内の路上で女子高生(当時15)を乱暴し、手首骨折の重傷を負わせたとして、強姦致傷罪に問われた大●市の無職、●●●●被告(39)の裁判員裁判。●台地裁(川●清●裁判長)で19日に行われた公判の被告人質問で、男性裁判員が感情をむき出しに被告を問いつめ、裁判長に制止される一幕があった。


さて、この事件記事を読んで、わたくしは、当該裁判員の言動そのものへの直接的な感想云々よりも、裁判員と被告との間の距離感というものを強く意識したのである。裁く者と裁かれる者という立場から、目線の上下関係みたいなところに意識を向けがちではあるが、実はそんな詰まらないことよりも、わたくしが大切だと思っていることは、両者の距離感である。遠すぎず近すぎず適度な距離感を保たなければ、冷静かつ適切な判断ができないとわたくしは考えている。被告の視点に立って、あるいは、被害者の視点に立って、考えるという場面も当然にあるかもしれないし、判断のための参考材料として否定するものではないが、最終的な判断(という一瞬時)に当たっては、それを行うのは自分自身なのであって、彼ら被害者や加害者との一体感は極論すれば不要と考える次第である。
尤も一方で、かように考えるわたくしと相容れるものではないけれども、こうした一体感こそ何よりも大切だという論調もある。次に掲げる著者はその典型かもしれない。


http://allatanys.jp/B001/UGC020005020091118COK00427_5.html

二度と国策や企業の都合が住民の生活より優先されることがないようにしよう。それは計画され一転中止になった、たとえば●井空港の現地住民、●田空港、新幹線や高速道路、原発などの計画に翻弄、蹂躙されて来た土地の人々には腑に落ちることだと思う。
 ふるさとをつぶして造られた空港が閉鎖されることもこれからあるだろう。今回も「あんたたちに話す言葉は一文字もない」という人もいた。だが「国策より生活」、以上の一点で私たちは連帯することができると考える。


一部分しか抜粋していないが、このコラム記事では、何より現場住民の目線に立って、現場住民の声を切り貼りすることなく丸ごと聞き遂げるという作法こそ大切であることを筆者はまず力説をする。そしてその上に、筆者が自らの琴線とするところの「連帯」が確立可能であるのだそうだ。
だが、わたくしは思う。
わたくしたちの多くは、その現場住民ではない。現場住民の立場に立って物事を考えてみる方法があったとしても、それはあくまでも視点の一つなのであって、わたくし、あるいはわたくしたち、翻って公の立場は、別の方向を向く可能性のある集合ベクトルがあるわけであって、全ての一致が約束されているものではないということである。そうでなければ、自分自身は最後まで無私な存在でしかあり得ない(そんな付和雷同だけしかない人間は殆どいない)。
したがって、わたくしには筆者の考える「連帯」は幻想にしか思えない。仮にそれが存在したとしても、「現場住民の目線」から導き出されるものではない。
以下、個人的感情を付加しておくとすれば、こうした同調性・一体性を強調する文章に対しては、胡散臭い「草の根社会主義」をひけらかしているようで、自身の中で峻拒感や辟易感を想起する。率直な本音を言えば、連帯なり同じ目線を強調することでもって、自らの私的な主張を併せ呑ませようとする欺瞞的手法ではないかとさえ考える。


わたくしには、『「あんたたちに話す言葉は一文字もない」という人もいた。』という事実こそが、何よりも現実を客観的かつ如実に物語っているように感じられてならない。それであっても、『だが「国策より生活」』なのだという自らの論理に強引に帰着させる考え方は、とりもなおさず、現場住民との一体化から生まれるものではないことが自明である(そう言う意味では、『だが』という用法は間違っていない)。要すれば、「連帯」と同様に、彼女の主義信条とするところの『国策より生活』の根拠は、住民目線から引き出されるものではないのである。


さて、ここで再び距離感の話に戻る。
距離感には許容範囲があって、近すぎても遠すぎてもいけないことをわたくしは述べた。
そして、それは当事者目線を持つだけでは客観的な判断が出来ないことにも触れた。わたくし自身としては、至極真っ当な発言ではないかと自負をしている。
そうした距離感というものを意識して眺めてみた場合、例えば、現場を訪問した先の筆者たちは、自分たちが他のメディアのようにずかずか土足で庭先を踏みにじるような行為には決して及ばないことを仄めかすのだが、物見遊山の観光客その他メディアとの違いはどうなのだろうかと考えてしまうわけである。


本日の音楽♪
「I Dreamed a Dream」(スーザン・ボイル