成熟過程社会における反体制の意味

LAタイムズ紙が日本を題材にした社会派ルポルタージュ風記事を掲載している。テーマは百里基地闘争。ひところのA新聞のような左側の視点の内容なのか、それとも米国的独自の視点が加味されているのか、暫し興味を持って眺めてみる。
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-japan-peacepark10-2009sep10,0,3809243,full.story

(仮訳)
◆日本の空軍基地における農民との用地闘争
東京北東部にある空軍基地近郊に住む反戦農民は、自らの所有農地の一区画を『平和公園』として囲い込み抵抗する。政府はそれを買い取ろうとする。徒労とは知りつつも。

 日本の百里からの報道 - 東京の北東部に位置するその農村地帯では、梅沢マサルが青々とした緑の田圃で、彼の父と祖父も行ってきた農作業に精を出していた。
 湿度の高い或る晩夏の午後、唯一そこで聞こえてくるのは、近くの薮で鳴く蝉の音だけである。そして、突然それが訪れる。最初はゆっくりと、それから徐々に力強さを増して、それは耳をつんざくような音にまで達する。日本軍の百里空軍基地の滑走路から離陸した超音速ジェット機の轟音だ。
 1日に約100回、ジェット機は操作訓練のための離着陸を繰り返し、彼や彼の家族がテレビを見たり、電話での会話はおよそ不可能となり、果ては思考さえ妨げられる。彼らは落胆する。
 「この騒音が、自分と家内が長く一緒にいてこられた理由なんだろうけど。」彼が口を開く。「自分たちがこうして戦っている時でも、他人が何を叫んで言っているのか、聞こえていないんだよね。」
 梅沢は空軍基地の近くで暮らしているわけではない。彼は基地の中で暮らしている。そこは、飛行機が離陸する場所から僅か2、3フィートしか離れていない。
 60才になるこの農民は、半世紀にわたって幾人かの地元の仲間と共に、日本の軍隊として知られる自衛隊に対して、屡々激しい用地買収交渉を行ってきた反戦活動家の1人である。
 この地の居住者たちは、1950年代に軍が空軍基地を建設するために多くの農地を供出したと言う。そして、チェス盤の駒のように勤勉な農民が排除されていったのだ、と。多くの人々が、基地自体が違法であると主張する。論争の的となっている日本国憲法第9条は、国が戦力のために軍隊を保持することを禁じていると、彼らは主張する。
 そして、大胆にもその自衛方策として、彼らは基地を取り囲み、その境界に居住する。梅沢の家族ともう一家族が基地内の土地にしがみついている一方で、他の家族はその境界の周囲で農場を経営する。
 地主たちの強硬な抵抗に直面して、政府は土地収用権によってそれを奪うよりも、世間の非難を浴びない方法として用地買収交渉を継続してきた。しかし、活動家は市場価格の2倍の額を呈示されようとも、売却を拒否し続けた。
 離着陸場の周辺で耕作を続けている農民は、飛行場の拡張計画に反対する。基地の有刺鉄線フェンスの内側で働く梅沢の家族ともう1家族は、数世代にわたって使ってきた法的に保証された農道を通って彼らの土地へと通う。
 他の者は、自分たちの土地を供出して基地内に「平和公園」を建設し、数百万ドルもする武器のコックピットに納まる若いジェット機操縦者を観察するため、手入れが行き届いたつぎはぎのオアシスを作り上げた。
 「自分たちは、小さな人民軍なのさ。」と、梅沢が言う。「だけど、自分たちには軍隊の連中よりもそれは強い意志力があるのさ。」
 梅沢は死守しなければならないと信じている。「軍隊なんて人類にとって良いもののわけがない。」
 百里基地の当局は、いがみ合いながら話し合うことを辞退した。
 そもそもは、1937年に帝国海軍が離着陸場を開発した。その際、天皇陛下が地域の農民に対して彼らの農地をお国のために供出するよう命令を下した。戦後、一本の滑走路と支線道路をバラバラにして、住民に払い下げられた。彼らは再び土地を手に入れ、耕作を開始した。
 1956年に、農民の反対を押し切り、自衛隊は空軍基地を再び開設した。「自分たちは、あの戦争で十分尽くしてきたじゃないか。」梅沢が活動家と語る。
 多くの農民が再び排除された。彼らの土地が収奪されたのはこれで二度目である。それ以外の人たちは、耕作が許された。
 およそ130人の農民は、何度か警察との激しい交戦で返還を求める抗議活動を行った。長年にわたる闘争の間に、一部の農民は全ての土地を売却してしまった。利益を生むには、あまりに土地がやせ細っていると結論付けたのだった。
 その後、1966年に住民はより多くの収穫が期待できる灌漑施設を導入した。農場は突然に栄え、基地当局は狼狽した。
 平和公園の所有者は、緊急自衛策を持っていた。彼らは、別の反戦活動家たちに土地を6フット四方の小区画にして売り払った。土地を買う側の政府の努力はさらに困難になった。
 長年にわたって、百里の活動家たちは、軍隊を再三再四戸惑わせてきた。特に、第二次世界大戦後に創設された軍隊の一組織である航空自衛隊の前参謀長で、率直な物言いで有名な田母神俊雄を。
 「彼は、航空自衛隊が一個集団の農民にさえ勝てなかったことを恥ずべきことだと口にしたのです。」と、百里住民を支える反戦グループの会のスポークスマンである伊達ゴエモンが言う。
 基地幹部は、かつては双眼鏡を使って隣人を監視していた。しかし、その後、一時的な休戦に至る。「それは、必ずしも和解をしたということではないのです。」と、伊達が言う。「我々は幹部に会って、互いに顔を合わせます。我々は微笑むかもしれませんが、決して挨拶はしませんよ。」
 次第に、当初からの強固な反対派の多くの人が亡くなっていった。そして、基地内で耕作し続けているのは2家族だけになってしまった。平和公園を運営する活動家は年老いている。
 73才の川合コウキは、脳卒中を患うまで、忠実な公園管理人として勤めあげてきた。そして、安い料金で訪問客が平和公園を訪れることを許してきた。現在、彼の体には部分的な麻痺が残っている。
 彼の妻は、桜と楓の緑が溢れるこの公園で、彼の仕事を引き継いでいる。強大な日本の自衛隊は、この小さな河合ミツエとの闘いに応じた。4.7フィートほどしかない彼女は、柔和な印象だ。
 「主人は、ここにこられないことがひどく耐えられないのよ。」彼女は、穏やかに言った。「それで、私が主人のためにここに来るの。」
 最近彼女は、日焼け防止のため、麦わら帽子の下にピンクのタオルを巻いた。制服を着た男性がそう遠くない所にある軍の格納庫で飛行機に燃料補給するために走り回っている時、彼女は愛すべき公園の雑草刈りのために腰を低く屈めた。
 彼女は言った。「私たちが軍の連中にとって獅子身中の虫なことは分かっているの。」「だから、連中をずっと困らせてやらなければならないの。私たちがここからいなくなったら、連中が思いのままにこの土地全部を使うことができるのでしょうから。」
 彼女は、監視台の上から、通りすがりのパイロットをよく目にする。彼らは彼女の孫ほどの若さだ。少し微笑み、不自然に筋肉をねじ曲げ、男性的な不機嫌な表情も見せる。「彼らは、私達が監視していることを知っているのよね。」と、河合が優しそうに話す。
 頭上で異様な軍の騒音が響くある日の午後に、梅沢は彼の母、妻と長男が住む家で、お茶をすすり始めた。夫婦は、近郊にもう一軒の家を持っている。
 ささやかな一つの物語は、家族の田圃に囲まれて構築されている。自動車エンジンを固定する作業を止めて、梅沢の息子は、基地の騒音に肩をすくめた。「自分は、生まれてきてからずっと、これを聞いて育ってきたからね。」と、彼は語る。「それが自分の人生なんだけどね。」
 梅沢の父親が昨年亡くなり、梅沢は農地を相続した。彼もいつかは父親と同じように死ぬことを知っている。しかし、彼には考えがある。
 彼は言う。「自分たちは、戦いを続けるために、子供を育てているんだ。」「今日のことなんてどうだっていい。100年先のことを考えているんだ。」
 政府は、最近、梅沢に対して彼の農地を500万ドルで買い入れると申し出た。彼は、それをあっさりと拒絶した。
 1日10時間も頭上で轟音をたてるジェット機。梅沢は、彼らの話に全く耳を貸さない。
 彼は言う。「人間には雑音を無視できる生来の能力というものがあるんだ。」「あんた、毎日この飛行機の騒音を聞いていてごらん。きっと、気がふれてしまうよ。」
 梅沢は、大抵の人が手で耳を塞いでしまいたくなるような騒音を上げてF4機がゆっくりと離陸するのを見つめていた。しかし、彼は微動だにしない。
 彼は叫ぶ。「人間なんて、どんなところでも暮らしていけるんだ!」

反戦→使命(生き甲斐)→イデオローグ。この図式は、非難も批判もされようがない。しかし、昨今の風潮は、それが全体ではなく、個の議論になっているがために、そうしたマイノリティの声を掬い上げる術がない。
記事はオーソドクスな手法で淡々と綴られているが、どこかにマイノリティの哀しみを感じさせる。それは、現代社会における反体制の意味がどの程度の反作用的張力的力の意味合いを持っているのかが曖昧になっている所以でもあり、そしてまた、取材対象と記者との距離感でもあるのだろう。


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ルート66」(ボビー・トゥループ