ワッツ・マイコ

その世界的著名ポップスターの急逝という衝撃的ニュースが世界中を駈け巡ったその時に、日本での街頭インタビューにおいて、明らかにわたくしよりも相当年齢が上の部類と覚しきおば様が「彼は私の青春そのものでした。」というコメントを手向けの言葉として送っていたのだが、その映像に対して不謹慎にもわたくしは、チョイチョイチョーイと突っ込みの合いの手を入れたくなってしまった。
あれは、もしかして、関西系の乗りのおば様であったのだろうか。


一方、東南アジアのある国では、追悼を兼ねて、刑務所の囚人諸君が一斉にあのゾンビー(スリラー)ダンスを一心不乱に踊っている映像が映し出されていた。
国風の違いからなのか何なのか、「追悼」の意味合いというものがちょっとわたくしには理解できなかった。


結局わたくし自身が不謹慎であると云うことに尽きるのであろうとは思うが、根っからのファンであったということがなかったこともあって、訃報に接しても、どうもその、何というか、世界中のファンと一緒に嘆き悲しむという当然のワールドに入れないでいる。


斜に生きる身として、この疎外感に居心地の悪さがあるわけではないが、この報道に関しては、どうもわたくし自身と世間様との間のズレといったものを感じてしまう。目にする追悼映像といったものがどうも奇異というか、何というか、「???」な世界に写ってしまうのである。
別な喩えをするならば、どこかの演芸館で全く知らない芸人さんのムーンウォークを見せられたときのような複雑な気分から逃れられないでいるといった感じ。


彼が世界的歴史的スターであるという事実は全面的に認めたいとは思うが、同時代を共に歩んだというお定まりの言葉がわたくしの口から出てこないし、何よりも、彼自身というよりも彼を受け止めている世間様の姿というものが、何というか、実に際どい感じに思えてくる。御高齢のおば様然り。某ASEANの囚人然り。


そういった転嫁はしてみたところで、きっと、常人には理解しがたい彼自身の晩年の生活と例の容姿が重なってしまって、正統的視座を保てずにいるのだろうとも思う(要すれば、彼に対する偏見のようなもの)。
であるから、わたくしは、そのことをもって、マジョリティの側にいる世間様を茶化して蔑んだりするつもりはない。


「私の青春でした。」というおば様も真剣な思いであったには違いあるまい。
ただ、そういったキワどいライフスタイルというものは、わたくし自身には明らかに無縁な世界であるということも、これまた事実として思いを致した次第である。


因みに、彼所縁の作品としては、個人的に、映画「ウィラード」が好きでした(「ベン」の方でなくて、重ね重ねの失礼であろうか)。


本日の音楽♪
まぼろしの人」(茶木みやこ)