自立と自律

中国という国は、相変わらず日本では起こりそうもない法外な事件があるから、読んでいる分には面白いというか…。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090129/chn0901291357002-n1.htm


腐った肉を1ヶ月もの間密かに学食として出されていたら、当の学生諸君が怒り出すのは当たり前ではあるが、仮に日本でこのような事案があった場合、記事にあるように「人権を返せ」などと学生自ら団体抗議行動に出るといったアクションは恐らくなくて、PTAが学校当局及び行政委員会に激しい抗議をし、それと同時に、マスコミにも情報リークをして騒動を大きくしつつ、社会的謝罪を引き出していく(そしてその後、相応の金銭補償に向けた訴訟行動に突入する)という行動パターンが定型化しているものと考えられる。


どちらがどうなのだというのはあまり較べるべくもない話ではあるが、彼岸の国で見られるような学生自らが団結して動くという習性は、この時代此方の岸では、相当に影を潜めてしまったようにも思う(そして、学生が社会に対して「人権」を叫ぶ声というのもほとんど耳にしなくなった)。
わたくしは●年代の安保闘争とかそういった学生運動に身を投じた人間ではないので、学生運動の何たるかを語れる立場にはないものの、わたくしの学生時代の中で最も「学生自治」が堅固であったのは、大学時代というよりも寧ろ、と或る町で過ごした1年余の中学時代であったように思う。


そこでは、体育祭や文化祭その他の課外活動あるいは様々な学校行事の運営が基本的に生徒(生徒会)主導で進められ、教職員もそれを尊重しつつ運営に協力するというのが基本スタンスであった。
おそらく学生運動の名残か何かかとも思いつつ、それ以上に所謂蛮カラの気風がその町全体に強く残っていたせいでもあったと思われる。


思うに、齢十五を筆頭にした青少年少女諸君の自主運営にして大きな破綻のなかったその理由は、当然教職員の影のサポートの力はあったには違いないのであるが、それ以上に、わたくし自身最下級生としてその場に居た経験から実感するのは、学年間の上下関係の厳しさ、つまり生徒間のタテ社会の仕組みの強固さであったと考えるのである。所謂体育会系の部活動のようなしきたりが学校全体を覆っていたような世界と言えば良いだろうか。


その典型が、生徒会と並行する組織として君臨していた応援団であり、全校生徒がそれに強制的に参画を義務付けられていた。
新入生にあっては、初期の刷り込みが大切とばかりに、授業の合間、昼休み、放課後とほぼ終日厳しい拘束に合い、しごきに近いような応援歌の訓練が繰り拡げられた。正に東京六大学の応援部のそれに似て、それはそれは厳しいもので、皆震え上がった。
但し、肉体的制裁行為が横行していたわけではない。


同じように、生徒会もその権力の強大さは相当なものがあり、特に各生徒の風紀には厳しい監視の目があった。
未来からの挑戦」(わたくし自身の思い入れからすれば、原作(ねらわれた学園)や同名映画の方ではなく、正にNHK少年ドラマシリーズのそれなのである)のあの高見沢みちる率いる栄光塾のような恐怖政治の世界に近いものであったかもしれない。


学生服の裾が長めであったり、スカートが短めであったりということが上級生の目に入れば、即生徒会に呼び出しという世界であった。しかしそれは、上から決められた校則だから守らなければいけないといった押しつけがましさではなく、生徒同士で議論して取り決めたルールなのだからというバーチャルな共同体意識の前提がそこにはあった。


全校生徒の集う生徒総会などは、居眠りなどしていたら後で呼び出しを受けてどんなお説教が待っているか分からない為に気の抜けない反面、生徒間の議論は正に真剣そのものであった。そこで服装規定の許容範囲などについて議論が行われるわけであるが、丁々発止やり合う姿に「大したものであるなあ」と口を開けて上級生の討論を聞いていた覚えがある。


先程の栄光塾は矢張り極端な喩えとしても、そうした縛り(規制)は、十分に前向きな効果はあったように感じられる。つまり、学校行事は教職員の目以上に上級生の目があって、真剣に取り組まざるを得ない世界なわけである。
そうした中から、自らのことは自らで律する、つまり「自律」(AUTONOMY)ということを学習していく。「自立」(INDEPENDENCE)の方は、個人的自我の成長あるいは経済的活動行為によって必然的に獲得可能なものであろう。他方で、自律の方は今にして思えば中々に難しい修養であったとも思うし、全くの自由世界よりはある種の制約の中でこそインキュベートしやすい気質であったとも思う。


当時の親世代がそういったある種の個人の自由の束縛を容認していたのは、そのシステムの整序にそうした価値を認めていたからに違いないと思うのであるが、現代では、このような他者を含めた総体の価値よりも自分の価値しか認めない非社会的非共同体的思考が蔓延っていることから、クレームは絶えないだろうし、成り立ち難いであろうと思われる。
したがって、残念ながら、齢を重ねいずれ自立は獲得できたとしても、初等中等教育段階において自律を素養することは逆に難しい環境になったのではないかと思われる。


現在はそのような旧時代的な中学校はあるまい。高校では一部旧制の流れをくむ伝統校は依然として強い生徒自治の空気は残っているのだと思う。生徒会活動も学校活動における習熟時限と捉えて生徒を制限下に置くという事例も知っている。
しかし、あの中学時代ほどのタテ社会と自治はあるまい。今でも中学のオリジナル応援歌の何曲かは脳裏に浮かんでくることがある。そして、その度に背筋に熱くて冷たい風を感じる。


本日の音楽♪
遠距離恋愛は続く」(ホフディラン