さよならディーバ

最後に彼の唄を生で聴いたのはいつだったろう。
2005年か2006年の年の暮。恒例のあっこちゃんのさとがえるコンサートのゲストとして彼は渋谷の舞台の上に登場した。
あれは、闘病による休養の直前であったかどうか。愛車盗難事件と相前後していた時期であったかどうか。今はよく覚えていない。


彼の唄う「ひとつだけ」。いつもはアンコール間近で聞く切ない愛らしさあふれた御馴染みのあの曲の、何とソウルフルでハートフルなことか。マイクをはみ出す彼の肉声、その歌ぢからに心底痺れた。本当のシンガーというものはこういうものなのだなと。歌姫ではないが、まさにディーバそのものであった。


例えば、ジョンレノンの暗殺されたいつかの年の12月。雪の降る歳末であわただしい地方都市の雑踏の中でその知らせを耳にした。「ああ、亡くなったのか。」と多少の感慨を胸に、しかし、冷静にそのニュースを耳にするわたくしがいた。
例えば、同時代という意味では尾崎豊が不慮の事故で突然にこの世を去ったとき。予兆もない中で、確かにショックな衝撃は堪えたが、やはり冷静にそのニュースを聞くわたくしというものが心の中にあったような気がする。


それは、何故かといえば、非常に失礼な言い方をすれば、彼らにはどことなく滅びのイメージがあった。わたくしよりも、わたくしの前を去っていってしまうのが早いだろうという根拠のない予感。そして、ブラウン管の中だけでしか知らない、その距離感。


しかしながら、清志郎にはそういった予感を全くもたずにいた。そして、いつも身近にわたくしの心の中にいた。いつでもわたくしの前を飄々として飾らず、しかし、範となる熱い気持ちを抱えて、お師匠様のようにわたくしの心の中に意志づいていた。そして、唄う。魔法の唄声。


彼の私生活は知らない。けれども。ステージの上で彼は明らかに教祖様であった。生き方という意味での、人生の教祖でもない。反体制的な唄ばかりが象徴的に取り上げられるという意味での、左翼の教祖でもない。ただただ唄うロックシンガーの教祖様。


心に誓おう。わたくしは決して伝説化はしない。けれども、一生忘れない。
さよなら、ディーバ。清志郎


本日の音楽♪
「DAY DREAM BELIEVER」(ザ・タイマーズ