七光りを英語に直すと’through the influence of one's father [mother]’となり、如何にも味気ない

政治家の世襲ということがよくない風潮のように取り上げられることが多い。
政治家の肩を持つ積もりはさらさらにないが、政治という仕事の中に、一子相伝による特殊技能といったものが存在するのであれば、世襲を殊更忌嫌う必要はないのだろうとも考える。


わたくしの同級生にとある政治家の子息がいた(それとは別に、国会議員になった同級生も居る)。
実家に何度か訪問をしたこともある仲であったが、人の前に出る、あるいは、人の上に立つといったことに関しては、その家がそういう技を醸し出していたというようにわたくしは実感をしている。
そういうことのためのスキルが本当にあるのかどうかは分からない。
また、別に一子相伝である必要もない。
そして、そもそも、人の上に立つことが政治家の本旨であるというわけでもなかろう。
したがって、枝葉の部分になってしまうのかもしれないが、政治家の家(家庭)には政治家の風土というか独特の色や匂いというものがあるということも、わたくしは経験上認めざるを得ないのである。
網元や名主といったものに近い空気か。
そういった外的環境に晒されて獲得する後天的な形質という優位性もあるに違いない。
政治家の世襲ということがよくないことのように取り上げられることが多い真の理由は、当該政治家の力量不足、資質不足そのものに発しているのだろうと思う。


そのように世襲というものを中立的な因果性として眺めていた際に、ふと思ったのであるが、近代において、政治家以外に世襲の多い世界というものに気が付いた。
料理研究家である。
誰とは言わぬが、各自思い返せばすぐにどこかの事例に心当たりがあることが分かる。
料理研究家世襲が多いのには、やはり一子相伝のような特殊技能というものがあるのだろうか。
料理を作るという意味において、同じ範疇に入ると考えられる、例えばパティシェの子供はパティシェを志向しがちであるのだろうか。
それとも、研究家という肩書きであるからにして、研究という意味において、同じ範疇に入ると考えられる、学者の子供はやはり学者の世界を志向するのであろうか。
古典芸道のような確乎とした秩序世界が確立されているとも思えないし、むしろ秩序世界の少ない近代芸人(所謂芸能人)の世界に近いのであろうか。


一つの仮説ではあるが、料理研究家の市場(マーケット)というものが非常に成熟していない常態にあるということが考えられる(我が国における政治家選択のための市場も、或る意味、未成熟であるなどと言ってしまっては民主主義への冒涜につながるか)。
閉鎖的市場という意味ではない。
誰もが料理研究家を名乗る機会を有してはいるのであるが、どういう人がその名を冠するに値するのかについての評価軸というものが体系的に確立されていないのではないかという仮定である。
果たしてそれが正しい仮説なのかどうかは分からない。
調理師免許、栄養成分表の習熟はもとよりのこと、野菜フルーツマイスター、酒類鑑定士、毒茸鑑定、食べられる野草の見分け方などありとあらゆる食に纏わる資格を有することが料理研究家を名乗る要件となるかというと、それもちょっと違うのかなとも思う。
しかし、少なくとも彼ら子息の料理本を読んで、料理を実際に真似て作ってみて、食べて、これは凄い!といった経験がないわたくし(腕のせい?)なので、特殊技能といったものには実感がまるで沸かない。
政治家との共通点で言えば、どちらも「家」を冠していることくらいか。
何だかとても立派そうではある。


本日の音楽♪
「Oh!キャティー」(斉藤誠)