13歳からのハロー・ワーク

政治家や官僚などと並んで、他人様から良く思われていない人種に分類されることの多いマスメディア業界であるが、彼ら人種にあっても、彼らなりの矜持というものがあるのである。
マスメディア人種が語るマスメディア訓話である。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/y/151/index.html
これを読みさえすれば、彼らの懐の奥深さというものを十二分に理解することができよう。
決して彼らのことを「××ゴミ」などと口汚く呼称してはいけない。
両親が悲しもう。



マスメディア人種はどういった誇り高き矜持を胸に抱いているのか。
筆者はそれに関し公的な使命感といったありきたりなことなぞには触れようとしない。
そこですかさず、「単なる空威張りの類いではないのか。」
「功徳心なんてある筈ないではないか。」
などと邪推などしてはいけない。
まずもって、マスメディア人種のプライドは、極めて高いのである。
そのプライドの高さを反映するように、肯首すべき発言も度々散見される。

常に国民の監視にさらされ、自浄努力を怠らないこと。これがメディア側の鉄則だろう。

「メディア」という言葉を何の職業に置き換えても通る、当たり前の鉄則である。
政治家や官僚でも口にしないような、このような全く当たり前の空言を堂々と高言できるその心の強さたるや畏るべしと言わねばなるまい。
また、マスメディア人種は、常人の真似できない高度な技能(スキル)を備えている。
素人なんぞがおいそれと口を挟める世界ではないのである。

「サツまわり」が取材記者の原点である。警察が扱う事件・事故には、取材が必要とするあらゆる要素が詰まっている。警察署に「オーッス」と上着を肩にかけて入って行けるようになることで、どんな相手にも臆せずに対することができる精神的な強じんさも身につく。記者はこうやって育てられる。

そのスキルは精神的強靱さなのである。
皮膚の一部が相当にぶ厚いのである。
であるからして、先の高言も宜(:むべ)なる哉なのである。
彼ら自身にあって現状否定などもってのほかである。
’change’は彼らの好む言葉であるが、自らには決してその矛先は向けられない。
アンシャン・レジームは政治や官僚や古い業界の世界の中だけの話なのである。
マスメディアをこの輩どもと一緒にしてはいけない。
マスメディアは別格なのである。

マスメディアはそうした読者、視聴者のニーズに応えるべく、万全の体制を組もうとする。長い間かかって出来上がったのが、現在の政治報道のシステムである。

例えば、記者クラブは癒着の場ではないかという批判の声に対して、このように答える。

記者クラブがいけないとか、自分たちだけで情報を独占しているといった批判は当たらない。記者クラブは、説明責任(アカウンタビリティー)を果たそうとする「公」の側と、国民の知る権利をとことん追い求めようとする報道側の、それぞれの社会に対する責務が重なる部分に位置するシステムである。膨大な取材の材料の中から何がニュースかを判断し、分かりやすく伝えるための「仕事場」でもある。

立派なお言葉であるが、これは決して政治家や官僚の発言ではない。
マスメディアをこの輩どもと一緒にしてはいけない。
説明をしたい側と説明を聞きたい側の重なり合う部分で、癒着など生まれるはずがないのである。
様々な情報の錯綜する場で取捨選択を行うマスメディア人種の目利きこそ優れて誇るべきところであり、それは、「警察署に「オーッス」と上着を肩にかけて入って行けるように」なって初めて身につくことができるものなのである。
そうした特殊技能を持つ選ばれた人種に癒着や打算妥協など生じるはずがないではないか。
くどくど理由など説明するには及ばない。
マスメディアをあの輩どもと一緒にしてはいけないのである。
そして、筆者は高らかに勝利宣言をする。

新聞が培ってきた取材、ニュース判断、編集の総合的な報道能力は、これに代わるものが出ない以上、不動のものである。

「マスメディアよ永遠に」
何度も唱和せられい。
再販維持制度の存続も謳えばなお彼らの鼻は高く成長しよう。




さて、
本題である。
先日、某学校を訪れた家人から聞いたのであるが、生徒達が自分の両親の職業について、どういう仕事内容でどういう感想を持ったかといった解説をした壁新聞があったのだそうである。
様々な職業に携わる親御さん達がいる中で、どの生徒達も自らの親の職業に誇りと畏敬の念を持って記事は書かれていたとのことであった。
ちなみに、その職業の中に冒頭のマスメディア人種があったかどうかは、ここには記さない。


本日の音楽♪
能古島の片思い」(井上陽水