夏の高原を駈け抜けるのは乙女ではなく、青い稲妻

該当記事は、吹雪の中の落雷である雷雪(thundersnow)に関するものであったが、掲載されている白黒の風景写真を見て、かつて数年間暮らしていたことのある地を思い出していた。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090305-00000000-natiogeo-int


それは、まさしく写真に写し出された風景のような農山村地帯であり、写真のそれよりも起伏に富んだ野菜畑が遙か地平線の彼方まで延々と続いていた。
北海道以外にもそういった地域は日本にあるのであって、わたくしの知っている場所だけでも、東北にも関東にも中部にも北陸にも中国四国にも九州にも似た風景はある。
人混みの喧噪や高層建物の群れやモータリゼーションの波といった文明からは凡そ遠く隔絶され、毎日を畑の中の闊歩に費やしていた。
アルプス一万尺には及ばないが、四千尺はあろうかという高地での仙人生活のような生業を一時期送っていたのである。

そうした環境に暮らす中で、流石に記事にあるような雷雪は記憶にないが、雷そのものには物理的な意味で身近に接する機会が何度かあった。
雷銀座と化する季節は、やはり真夏である。
雲一つ無い良く晴れた暑い夏の盛りの午後。
そう遠くない向こうに聳える小高い山の際のあたりが幾分けぶり始めたように見え、数十分後にもう一度そちらの方角を見やると、いつの間にか黒い雲の塊に進化を遂げている。


その山で出来た黒雲は鞅々にしてこちらの居る方にやってくる。
文字通り、高原の上を疾風のごとく駆け降りて、こちらに向かってくるのである。
畑の上を流れるように下ってくる様は、風神雷神図のあの絵姿を連想してみれば宜しい。
地を匍い、地鳴りのような響きとともにごろごろと静かに太鼓を鳴らしながら、迫ってくる。
まさしくあの鬼神が雲の中に潜んでいるかのようである。


ゴム人間でない限り、エネルは苦手である。
如何に仙人と雖も雷は怖い。
畑の真ん中にいるわたくしたちは、太鼓を鳴らして走り寄る雷がこちらに向かっていることを確認するや一目散に退散をする。
避難先は畑脇に止めた自家用車の中である。
避雷のための最大の安全策である。


しかし、その車までが近いようで遠い。
大きな畑では、一枚の畑の片道が300メートル以上あろうかというところもある。
そういった場合には、緊急避難的に近くの林の中に、ままよと飛び込む。
危険な物品(腕時計、眼鏡等)は、畑の中。


標高四千尺の地であるから、雷雲そのものが人間の立つ位置に体当たりで突入してくる。
そういった感じである。
雷雲は比較的小さなもので、夕立と雷の時間は三十分にも満たない。
雷が落ちないことだけを祈りながら、通り過ぎるのを笹藪の中でじっと待つ。
運悪く間近に落ちた時には、その迫力に男女お構いなく、尻小玉が抜け落ちてしまいそうになるほど心胆を寒からしめる。
「鼻ピアスしていなくてよかった。あの時誘われるが儘に不良の道に入らなくてよかった。」と走馬燈のように人生を振り返りながら、心の底からそう思う。


雷神が下の里へと通り過ぎた後、林の中から体を濡らして、いやあ無事でありましたと帰還をする。
しかし、タダでは転ばぬ身、手には林の中で手早く収穫した茸や山菜がしっかり握られている。
夕餉にはその茸や山菜の入った自家製鍋焼き饂飩が食卓の上に並ぶ。


本日の音楽♪
「ため息のマイナーコード」(THE東南西北