褒め称しているのは誰

脳梗塞という病は、日々の生活の中で血管の収縮や硬直が進行していることが顕在化しないという点において、予兆や予測が難しいらしいたいへんに厄介な代物である。
所謂「論壇」という一つの作法様式において、世間の中で概ね共有化されている理解としては、骨格となるべき思想哲学をぶらさず、その上で、理論的(説得的)な展開を図るという、まあ至極真当な知的行為に依拠するものだと、わたくしはこの度までそう思っていた。
(但し、当人の哲学とも言うべきフレームワークをガタガタ取り換えられる困った変節の論者(中●某氏など)も一部にはおられるようではある。)
そういった共有の約束事自体への横紙破りをするかのような論評(らしきもの)に、時として巡り会うことがある。
それが名の売れていないジャーナリストであったりしたならば、先入観で見てしまって大変申し訳ないが、さもありなんということで読み流すのであるが、一応かつては名の通った識者であった場合(今はどうかは知らない)、感じ入るところがある。
それが、これ(コラムらしいが)。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/p/79/index.html


冒頭からbias全開である。

◆いつでもドルを欲しがる米国人

米国と中国は根本的によく似ている。地図を見れば分かることだが、どちらも国土が大きく、人口が多い。そして、大言壮語する。すぐバレるようなうそを平気で大声で言う。さらには、どちらも軍事力の強化にひたすらまい進している。それから、金が大好きである。米国人はドルが好きで、中国人はこつこつと金をためて、物事をわいろで動かす。

品格であるとか品性であるとかわたくしの口から言えたことではないが、何を論評するにせよ、せめて世間の常識的な節度をもたないと、論評以前のところで「どうしてしまったのか」ということになってしまい、読者の大半は、別な意味での意表を突かれ、右往左往してしまうのではないかと思う。

今の米国については、わたしは「米国はこうだ」というひとくくりの見方ではなく、三つに分けて見ていくべきだと思う。ワシントンやニューヨークの米国は、お金が大好きで、言うだけ言って、やるべきことをやらずに逃げようとする。中国も似たり寄ったりだ。そんな国は長持ちするはずがない。だから米国も中国もつぶれるだろう。ドルが崩壊したあとに残るのは田舎の米国で、それが本来の米国だと思う。

筆者は、おそらく、「お金大好き」の拝金主義を非難したいのであろう。
では、拝金主義とは具体的にどういう主義に基づくもので、どういう経済活動をする者であるのか、それの何がいけないことなのか。
そういった解説が説得力を持たせる上で肝要だと思うのであるが、ここでは以下のような説明しかない。

ワシントンの米国は、法律を振り回すのが大好きで、軍事力を振り回すのが大好きで、自由、民主、人権と、やたら説教するのが大好きである。その辺は中国によく似ている。
 ニューヨークの米国は、ユダヤ人の米国である。そこではせっせとサブプライムローン不良債権を混ぜ合わせて、得体の知れないデリバティブ商品を大量生産していた。それはイラクフセイン元大統領がつくっていたとされる大量破壊兵器よりも、もっと恐ろしいものだった。本当に世界を壊す金融兵器だった。

理論も理屈も何もない。
現状の全否定である。
単なる反ユダヤ、反中共思想との違いは、最早見出すことはできない。
こうした嫌悪感を裸にした発言では、残念ながら多くの人の共感を得ることは難しい。
尤も、筆者は、読者を説得する気持ちなど当初から持ち合わせていないのかもしれない(biasの同意者を募っていただけかもしれぬ)。


わたくしは、ここまで読み進めて来て漸く、筆者の経歴と肩書きを過大に評価・誤解をして、所謂正統な経済・社会的な論評に値する発言をしていたのではなかったということに愚かにも気付く。
最近も与党幹部の中の極めて口端の軽い政治家が新聞紙上を賑わせておられるが、正にそういった水準の発言放言であって、これは、単語の羅列によるthicketと看做してもよいものかもしれない。
あるいは、漫画の吹き出しで括る前のコマ割りみたいなところか。


筆者の考えを何とか汲み取ろうとしたことがわたくしの思い違いであったとは言え、反省と自戒も込めつつも、せめてもう少しだけこれの分析に踏み込んでみたい。
とは言っても、筆者の考えそのものの中に論評に値する価値のある内容は見出せないため、筆者が物事をどのように見てとらまえているのか(観察力)ということについてコメントしておこう。
人の考えは十人十色実に様々であるが、現象のとらまえかたには後の分析ほどの枝分かれは生じていないのではないかと推定するからである。


前述の発言にあるように、筆者にとって、中国は一色で、米国は三色でそれぞれ表される。
これが彼のとらまえかたの基本パターンであるように見える。
何故そのように筆者の目に見えるのかというメカニズム(理由)は分からないが、ここで断定できることは、その単(視)眼的構造についてであろう。
これは、所謂評論家の専門的技術としての、複雑な事象を分かりやすく解釈するという意味での単純化を図る作業とは明らかに異なるものであって、あらゆる直感視に結び付くこの観察受容体の構造自体が大変に興味深いものとわたくしには思える。

2009年の世界の動向を予想すると、米国内はもうズタズタになるだろう。中国も同じようにズタズタになるだろう。それから、ロシアもなると思う。
 ロシアはプーチン前大統領の政治を見て、外国資本が逃げてしまうだろう。外国資本が逃げるだけではなく、ロシアの資本が外国へ出て行く。
 ロシアには資本が持ち込まれなくなるから、ロシア経済は孤立して沈没する。少なくとも短期的にはそうなるはずだ。すると2009年、2010年は金がないロシアになるから、麻生首相に「北方領土を買ってください」とか、「援助してくれたら何とか手加減する」とか言ってくるだろう。
 そうすると、日本人は善良だから、相手の言う通りに動いてしまうかもしれない。だから、わたしが日本外交に望みたいのは、そういうふうにだまされるなということである。外国とはもう少し普通に付き合ってほしい。

単眼的とらまえかたであるからして、こうした一見、烏賊様的、あるいは、はったり的な予言じみたものしか筆者の脳からは出力できなくなってしまう。
戯言の域を出ることが出来ない宿命的な顛末でもある。
単眼から「知」は産み出し難い。
要すれば、「何を考えているのか」と詮索するよりも、「どのようにとらまえているのか」によって、発言の性格をよく吟味できると言うことでもある。


なお、こうした予言そのものに関して、読者は、その後の検証作業には及ばない。
筆者は恐らく健忘してしまうであろうから(予言者には多い)、自己責任は課せない。
その義務は、筆者をチョイスした掲載誌にある。
いずれ掲載誌(NIK●EI BP)の何らかの意思表示が示されることを期待したい。

昔のことだが、大恐慌があっても、金融市場は一上一下しながら、不思議と戻った。大暴落した株でも買う人が出てくるのだから、人間はみんな甘いなと思う。しかし、働く人がいないのでは、その国の経済は回復しない。1929年の大恐慌以後は、一上一下であった。今回もきっとそれと同じになるだろう。だから、戻ったら売りなさい。お金のことは忘れなさい。

筆者の結論は、「不思議に何とかなる」である。
一連の発言内容が論評に値しないことに気付かずに読み進めてきた読者は、最後の最後にして、口をあんぐりと開け放ち、冷え固まってしまうに違いない。
しかし、敢えて解説を加えれば、「不思議」という意味は、単眼的とらまえかたと実際の世の中のその後の現象結果との因果関係を巧く説明づけられないことの証左と捉えれば自ずと理解が出来よう。
つまり、筆者にはこう見えているのに、現実の世の中の結果が筆者の意や予想に全く結び付かないことが筆者言うところの「不思議」なのである。


biasを糾す処方箋は存在しない。
したがって、こういった人物にそれを糾弾しても詮無きことである。
いずれにせよ、私的放談は兎も角として、公共の場での発言は極力控えていかれることを筆者にはお勧めをしたい。
今後とも社会的に何か貢献をしたいと考えているのであれば、経済であるとか金融であるとか雇用であるとか世界で問題になっている共有の事柄を筆者は何も言わなければ、それが一番の社会貢献に繋がるのではなかろうか。


本日の音楽♪
「涙」(ケツメイシ