ジョジョとジョゼ

ションベン・ライダー」(監督:相米慎二)は、わたくしのフェイバリット青春映画の五指に入る作品である。

既に封切りから25年何なんと経とうとするが、未だに賛否渦巻く批評があり、観た人たちの判断はきっぱりと割れているようであるが、わたくしは、批判する側のこぼすところの「ストーリーや辻褄が滅茶苦茶ではないか」という点は、この際どうでもよろしいことであると考えている。
この作品のテーマは青春の無軌道的硬直性にあり、子供から大人になろうとする若者(中学生)たちの一途さ、危なかしさ、そしてバランスの悪さをコラージュ的に切り繋ぎ、象徴化をしていこうとする試みである。
そして、青春とは、かくもエネルギーに充ち満ちて、かつ、それでも充たされず息苦しいものであるということを相米監督のポリシー的手法であるところの長回し叙事詩的映像で実感できるというところが、この作品の観るべきポイントであると考える。
結果としてのストーリーは、予定調和的であろうが支離滅裂であろうが、彼らの意思や熱意とは何らリンケージしないということを暗喩する。
主人公であるブルース(河合美智子)の中性的でキュートな弾けっぷりが何と言っても万人の印象に残るところではあるが、ジョジョ永瀬正敏)がその後にあれほどの味を備えた俳優になるかということを予想させないごく普通の純真で頭の悪そうな少年ぶりを演じているというのがわたくしはたいへん気に入っている(素に近い演技であったのかもしれない)。
中学生の年頃にある女の子というものは、大体にして、大人と子供の間のアンバランスさの中で往生をしている。
そして、そのアンバランスな醜さを隠すために、不要な修飾にえてして走りがちで、率直に観ていて、全く美しく思えない。
それに対して、同年代の男の子も同様のアンバランスさの中で往生をしているのではあるが、自分自身を計算していないぶんだけ、アンバランスさというものが飾らない魅力としても映る。
もちろんわたくしも、その当時、彼のその後の変貌というものは予測し得なかったのであるが、それをおいても、ジョジョという新人の少年俳優は、「買い」であると思った。
相米監督というと青春映画では「セーラー服と機関銃」や「台風クラブ」ばかりが取り沙汰されがちであるが、彼の真の青春映画は、本作品と「翔んだカップル」であるとわたくしは確信している。


一方、「ジョゼと虎と魚たち」(監督:犬童一心)は、わたくしのここ5年以内に観た映画の中でフェイバリットな五指に入る作品である。


巷間の評では奇妙な恋愛映画といった捉え方があるようであるが、全く奇妙でも何でもない。
純粋なごく普通の恋愛映画である。
そして、この作品に惹かれる理由は、何と言ってもジョゼ(池脇千鶴)の何とも魅力に満ちた仕草、表情、感情表現にある。
わたくしが特にジョゼの仕草で好きなところは、本を読んでいるシーンである。
押し入れで、布団の中で貪るように本を読む。
文字通り獣のように行間に食らいつき、貪っているのである。
その一途な視線、一心不乱さにわたくしは胸が苦しくなる。
まるで疑似恋愛を体感しているかのようでもある。
また、ジョゼの視線によるところのどんよりとした曇り空、乾いた遠い青空、冬枯れの海等々の映像風景も印象に残る(わたくしのパソコンのスクリーンセイバーとしても愛用をしていた)。
くるりの音楽もよろしい。
ちなみに、わたくしに恋愛論は全く持って不似合いなことだとは重々承知の上で述べるのであるが、格言めいて言えば、恋愛は成就することが目的ではない。
この映画を悲恋と捉えるのは短絡的に過ぎ、生々しい恋愛行為の純粋さに若さや美しさを感じるのでもよいし、それ以上に、何よりも恋した相手であるジョゼの愛おしさを共有視して鑑賞するのがよいのではなかろうか。
そうすれば、自らが何を得て、何を喪ってしまったのかを、恒夫(妻夫木聡)の泣き崩れるラストシーンとともに、きっとわたくしたちも実感できよう。


ジョジョとジョゼ。
わたくしのフェイバリットな主人公たちである。


本日の音楽♪
年末のレコ大の舞台で生ライブが聴けるとは思わなかった。どんとよ永遠に。
「魚ごっこ」(BO GUMBOS)