シュムペータとドラえもんの密とは言えない微妙な関係

過日、と或る団体バスに乗り合わせる機会があり、車中、大勢の小学生諸君らと一緒になって、ドラえもんの映画を鑑賞する幸運(?)に恵まれた。
わたくしは、正直なところを吐露すれば、ドラえもんよりもオバQのほうが余程好きなわけであったが、ほとんどの大人が関心なく眠りこけているバスの中で、小学生諸君らと一緒になって、結構熱心に映画を最後まで見通してしまった。


さて、ドラえもんのストーリーの核となるのは、彼の四次元ポケットから繰り出される様々な新道具にあることは、世界中の人々にとって周知の事実である。
それは現在の社会では夢のような画期的機能を有した新道具であって(中にはわたくしたちが現在共有する科学原理に大きく抗うような虚数解的な道具もあることにはある)、わたくしはそのシーンを見ながら、《技術革新》という言葉を連想し、「確か技術革新という用語は、シュムペータが産み出したのではなかったか。」と空覚えで頭の隅で考えていたりした。


学生時代にほんの僅か聞き囓っただけの経済の素人であるからにして、帰宅後、早速確認をしてみると、シュムペータが編み出した言葉は正確には《イノベーション》であった。

(安易にwikipediaより)
イノベーションシュンペーターの理論の中心概念である。初期の著書『経済発展の理論』では新結合と呼んでいた。
イノベーションとは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入することである。日本語では技術革新と訳されることがあるが、イノベーションは技術の分野に留まらない。

イノベーション》を《技術革新》と訳すことに問題ありとする主張は、例えば、おかみの会合においても以下のような発言があったりする。

イノベーションを技術革新と訳すのは間違い。もともとはシュンペーターというオーストリアの経済学者が100 年ぐらい前に言ったことで、利益を生むための、差を生むための行為のことと経済学的には定義されている。技術が差を生むのも事実だが、それだけではない。
(平成18年10月26日イノベーション25戦略会議 第1回会合での発言より)

何らかの利益や革新をもたらす行為は、単に技術の発明・発見だけで完結するものではなく、それを如何に社会で使いこなし、利益を回収するかというメカニズム全体を総称するものであるということであるわけなのだな、という基本認識をまずは理解して、そこで、ハタとわたくしは気が付いた。


ドラえもんがポケットの中から新道具を繰り出す(彼の台詞とともに例の場面を想像されたい)。
ここで注意すべきは、その新道具(あるいはその行為自体)が《イノベーション》なのではないということである。
それを彼あるいは彼らがどのように使うのかによって、《イノベーション》の成否に結び付く。
ドラえもんから《イノベーション》という言葉を連想するのは凡そ容易なことには相違ないが、実は、ドラえもんはその《イノベーション》の実現に大いに難儀をしているというストーリーなのであった。


例えば、映画の中でスモールライトが出てくる。
これを我が身に照射して、敵であるこびとの宇宙人と同じスケールになって、敵と戦う。
しかし、最初からスモールライトを敵側に照射して、敵をさらに極小化すれば、ものの3分もかからず紛争は万事解決し、映画は大団円を迎えるであろう。


勿論それではドラえもんを生業とする関係者の方々の諸々の立場がなくなってしまうし、小学生諸君が怒って暴動を起こすに違いないので、様々な紆余曲折を交えて、約90分という尺に収めているわけではあるのだが、それにつけても、この主人公は、新技術を利活用するという発想において致命的な難があると言わざるを得ない(このため、のび太達の世界では、シュムペータ言うところの《創造的破壊》が生じることはない)。
それは恐らく「この道具をどういう風に使いこなしたらいいか」という直接的なマニュアル習熟の貧弱さもさることながら、それ以上に、「この道具を使って社会をどのようにしていこうか」(※筆者注)という創造的発想性に決定的に欠けていることに起因しているのではないかと思われる。


彼が未来の世界で欠陥ロボット呼ばわりされているのもそういった辺りに原因があるのであろうと改めて思い起こしたりしたのであるが、そもそも、そういったロボットを産み出してしまう未来社会そのものにおいても、そうした新技術が有効かつ十分に利活用されているのかどうか、少し不安な気持ちになってしまったことも事実である。




実は、この考え方にも旧態依然としたものがある。
「この道具を使って社会をどのように変えていこうか」という考え方は、所詮、道具(技術)ありきの発想であって、本来は、「こういう社会を実現するためにどういった道具が必要か」という逆転の発想が研究者には求められるのである。
例えば、スモール光線技術を目の前にして、さてこれをどう役立てようかと思案するのではなく、お年寄りばかり社会になって、介護の必要のない世界を目指すという目標を設定した上で、難治外科手術においてドラッグデリバリーシステム化して使ってみよう(映画「ミクロの決死圏」をイメージされたい)、そのためには、スモール化技術の開発が必要だ、では光線の研究者とジョイントしてみよう、安全性の検証も必要だね、ところでこの技術が実現した暁には商いを興してみようよ、世界の覇権を握るために必要な仕掛けや仕組みはどうしようかね等々とステップを踏んで最後の行き着く所まで考えていく発想が専ら正統と言えるのではないだろうか。
尤も、現在の日本の象牙の塔の研究者にそうした発想を求めることには、まこと多くを望むべくもないが。


本日の音楽♪
「Juliet」(松尾清憲