犬の遠吠えは敗北を意味しない

「ベルカ吠えないのか?」(古川日出男)読了。

久しぶりに、エモーショナル溢れる作品というものに接することができた。
《犬の視点で戦争と紛争の世紀(20世紀)を描いた大河史》
一言でいってしまえばそれまでの内容であるが、ストーリー、展開、文章作法等あらゆる場面において、作者個人の熱情や個性やカラーがこれでもかと押し出されている。


まず文体の破天荒さ、ブロークンさに驚く。
犬の視点で描かれるという特異点は他の作品でも類似例があろうが、作者はストーリーの途中で、何度も犬に語りかける。犬たちを俯瞰する別の視点が存在する。
一方、人間の登場人物の殆どは固有名詞を持たない。
人間の性格描写を雑にしているわけではなく、彼らの行動は悲しいほどに愚かしい。
ごく一部の例外を除いて、犬と飼い主の間に、「情」は差し挟まれない。
人間と犬との間のドライな主従関係の緊張感を表現する。


こうした文体スタイルに読者は違和感を感じ、振り回される。
傍若無人とも言えるスタイルに辟易とする読者もいるかもしれない。
そう言う意味では、読者を選ぶ作品ではある。
「蒼い」と評する者もいるだろうし、「ふざけすぎ」と憤慨する者もいるかもしれない。
犬好きの読者であれば好みそうかというと、強ち、そうとも言えない。


しかし、それは支離滅裂とか独り善がりというものではなく、作者が念仏のように繰り返す信念のようなものであって、そして、それが頑固にも最後までぶれない。
ともすれば、読者であるところの自分だけがその確乎とした秩序世界から弾き出されて、疎外状況にあることに気が付くことがある。


エネルギッシュとかエモーショナルさということについて、例えば、破天荒と評される新宿区歌舞伎町を舞台にした著名作2品を取り上げて、これと比較をしてみよう。
超人的タフネスガイと巷で評せられる「鮫」や「帰化台湾系若者」が超絶悪党らと闘い、活躍をするハードボイルド系のあれらである。
あれら作品は、「非情(無情)」「壮絶(血の洗礼)」といった賞賛のフレーズを伴って、多大な世間的評価を受けている。
しかし、本作を読んだ後に、そういったフレーズをもう一度思い出してみれば、歌舞伎町でのアクション劇が大層お行儀のよいものに感じられてしまうことだろう。


わたくしは、ああした歌舞伎町モノがこのミス等で文句なしの一位に輝き、ベストセラー化されている状況下でも、読中読後、沸き滾るような感情というものには導かれなかった。
型破りではあっても、決められた約束の中での大暴れといった印象であった。
喩えてみれば、テレビの刑事ドラマものの延長気分で読んでいた。


ベルカの作者はそうした約束事の「枠」からもはみ出そうとする。
それが決して破綻しないのは、ひとえに犬の視点で戦争史を描きたいというエモーショナルの一貫性が整序ある由縁である。
そう言う意味で作者のスタイリッシュさ、格好良さという点であれら作品よりも圧倒的に勝っていると思うのである。
ただし、決して同調(シンクロ)はできないので、その居心地の悪さに、読後は非情に疲れることも事実ではある。


ヴィレッジ・ヴァンガード某店において、ミステリジャンルでは珍しく本作品がプッシュされているのを読後発見したが、それも納得である。
(※コミックやカルチャー系の書籍を得意分野とする同店では本当に珍しいことである。)


なお、作中の重要な役回りとなるソ連宇宙船に実験動物として搭載させられたライカ犬の話については、映画「My Life As A Dog」で知ったことを思い出した。
同じライカ犬を巡る状況下で、あの映画の主人公であるナイーブな少年とこの作品の登場人物である日本人(だった)少女ストレルカヤが同じ子供同士だとは、とても思えない。


本日の音楽♪
「FOOLISH GO-ER 」(ZELDA)