「温暖化異聞」をよむ

Y紙の地球温暖化研究に関する連載記事を読む。
中央紙の中では科学に対して比較的冷静かつ中立的な記事が多いY紙である。
今回もわたくしたち一般読者に分かりやすい内容記事であった。
http://www.yomiuri.co.jp/eco/ondan/on090223_01.htm
http://www.yomiuri.co.jp/eco/ondan/on090302_01.htm
http://www.yomiuri.co.jp/eco/ondan/on090309_01.htm



連載記事の骨格はこうである。
地球温暖化研究に関して、近年の温暖化の主因を①人為起源の温室効果ガスの増加に求める「IPCC派(気候変動に関する政府間パネル)」と、②自然変動など別の要因を重視する「懐疑派」との論争が活発化している。
確かに最近様々な主張を目にすることが多くなったと思うところ、双方の言い分をほぼ等分に載せて紹介をしている。
さて、ではどちらが正しいのか。
記者は、以下のように結論づける。

科学は、膨大な未知の現象を一つひとつ解明し続ける営みなので、どこまで行っても終わりがない。こうしてみると、IPCC派と懐疑派は、おなじ温暖化の科学を、それぞれ「ここまでわかった」とみるか、「これがわかっていない」とみるかで立場が違っているともいえる。

これは大変に分かりやすい説明である。
現段階で判明している事実が限られていることが学術的論争の原因でもあるということである。
であるからして、両者の論争自体は今後とも有意義なものであるし、IPCCの見解に沿う「主流派」の主張を一般市民にわかりやすく解説しようとする科学者の行動についても、

 科学技術振興機構の安井至・上席フェロー(環境科学)は、江守さんら「懐疑派バスターズ」のこうした活動を高く評価する。

との記述は、正鵠を射ている。



記事の骨格については、以上の通り、肯首しつつ読んだが、幾莫かの展開について何点かコメントを付した上で、昨今の温暖化問題の風潮についての個人的見解を取り纏めておくこととしたい。


 「気候変動に関する政府間パネルIPCC)」が2007年に公表した第4次評価報告書では、「20世紀半ば以降に観測された世界平均気温の上昇のほとんどは、人為起源の温室効果ガスによってもたらされた」という見解が正しい可能性は90%以上であると表現している。つまり、この見方が間違っている可能性を自ら認めているのだ。
 藤垣さんはこれを「IPCCの誠実さ」とみる。池内さんは、「懐疑派は残りの10%を過大にとらえて、全部がウソだと言っている」と手厳しい。

「温暖化研究ではまだまだわかっていないことがある。」との論旨の他方で、こういうレトリックは、「温暖化研究はほぼ90%のことが明らかになった。」と読者に受け取られる恐れがある。
そして、IPCC派が90%正しいという捉え方、こうした考え方は戴けない。
記事においても科学は全知全能でないことが何度も繰り返し述べられているが、であればこそ、100%(全知)がどの程度のものなのかは誰にも分かりようがない。
「いまこれだけのことがわかっている」ということは、決してパーセント表示など出来ないのである。
懐疑派は重箱の隅ばかりを突いてくるという印象を持たせたいのかもしれぬが、折角よい結論(同じ温暖化の科学を、それぞれ「ここまでわかった」とみるか、「これがわかっていない」とみるかの違い)を付けているのであるから、さて、急いて結論を出すのは如何なものか。
学術的論争は餅屋同士でさらにもっと突き詰めてもらい、行司の軍配を返すのは、まだまだ先であっても全く構わない。



IPCC派の主張、懐疑派の主張ともども包含されるところの科学について、不確かさが存在することは、わたくしも同感である。
その上で、両者の論争は大いに結構なことであるが、それに輪を掛けて、有象無象の懐疑論が社会で沸き起こるブームの主因を、一般市民が科学を「正しい」と「間違っている」という二元論で捉えていることに求めている。

そして東京大学の藤垣裕子准教授(科学技術社会論)は、一般市民が科学に対して抱くイメージと実際の科学とのズレが、懐疑論ブームの背景にあるとみる。
 藤垣さんによると、一般市民は科学が常に確実で厳密なものだと思っているが、現実の科学はそうではない。不確かさを抱えた地球温暖化予測も、一般市民の受け止め方は「正しい」か「間違っている」かのどちらか極端になりがちだ。政治家や行政関係者、マスメディアの多くも、「一般市民」の側だという。

発言者の固有名詞の肩書きであるところの科学技術社会論という学問大系を承知していない中で敢えて述べるが、科学それ自体を追求していくという命題と、科学をツールとして用いて社会で利用する(これも広義の精神科学であることはいつかの機会に述べた)ことに関する命題では、議論の次元が明らかに異なる。
地球温暖化研究に関する論争の主因は、学術的には前者の話であり、社会がどうしてこのことに関心を持ったのか(翻って、社会的受容)については、後者の次元の話なのであろうとわたくしは考えている。
白黒はっきりつけようと騒いでいる一般市民も中には居るのかもしれないが(実は白黒つけるのを好むのはアカデミアも大差ないのであって、引用にある一般市民の捉え方はドーナツの穴のようなものであるのだが)、この温暖化研究の成果をどのようにして社会の中で有効に使えば、メリットやデメリットを実感できるかといったことが社会自身未だよく分かっていない(そこまでの熟度に社会が達していない)からこそ、社会はぐずぐずと態度を決めかね、燻っているのではないか。
それは新技術の社会受容において概ね共通する課題でもあると思う。
社会受容において科学そのものの不確かさに遠因を求めるというのは、如何なものかと考える(精神科学として未熟ということであれば、論旨は一貫するが、そうは読めない)。
それがいけない理由は、次の発言からも明らかである。


池内さんは「疑似科学入門」(岩波新書)の中で、「地球は人間の体と並んで、単純な計算式が成り立たない複雑系の最たるもの」とし、地球環境問題を「科学が不得手とする問題」のひとつに挙げている。

これは学問としての不確実性の観点での発言であり、不得手プロブレムかどうかは兎も角として、複雑系において解が明確に見出しにくいとの点は同感である。
しかし、続いての発言に、

それでも、「だからといって、温暖化問題を先送りにするわけにはいかない。人類の未来を考えれば、予防原則に従って手を打たなければならない」と語る。

単にこの発言者のロジックだけを敷衍させれば、科学はいい加減で宜しい、場合によっては、科学は社会にとって必要ないと読むことも出来よう。
百歩譲ってそれは曲解に過ぎるとしても、科学の学術的探求の限界性、即ち不確実性の話と、科学をツールとして社会で有効に利用する際の限界性については、別の話なのである。
別の話なのではあるが、両者は整合が取られなければならない。



したがって、「だからといって」で両方の文章をつなぎ合わせてはいけないのだとわたくしは考えている。
「であるからこそ、研究を一層進める必要がある。」というロジックでなければならない。
わたくしは、科学的不確かさを免罪符にして、十分なエビデンスをもたずに社会で利活用される場面というものを大いに懸念をする。
地球温暖化研究においても、鬱陶しい批判ではあろうが、そういった声を抹殺してもよい段階にあるとは言えない。
そして、そうした懸念は、記事中にもある「予防原則」という用語の意図的使われ方でも散見されるところである。
1992年の環境と開発に関する国際連合会議(UNCED)リオデジャネイロ宣言の第15原則で定義されるところの「予防原則」について、以下に引用しよう。

原則15 環境を防御するため各国はその能力に応じて予防的取組を広く講じなければならない。重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き伸ばす理由にしてはならない。

この条項は、地球温暖化対策において科学的な不確実性を口実に対策を拒否または遅らせる動きの牽制とする意味合いを持つものではあるが、他方で、因果関係が科学的に証明されていないリスク被害を避けるために未然に規制を行なうといった極論の根拠となるものでは決してないということである。
大概において「予防原則」という言葉を持ち出してきた時には、安易に拡大解釈をなしている場合が多いので、心して読むべきである。
わたくしの主張をお浚いしておこう。
科学は不完全であるが故に前進を続けるのであって、その努力なしに、社会での適用を考えてはいけない。
念のために、もう一度繰り返しておこう。
科学の不確実性は社会に対して何の言い訳にもならないということを科学の側に立って発信する者は肝に銘じておくべきである。
固有名詞は兎も角として、上記発言(並びにその著作物)にわたくしは危なっかしさ(論理的脆弱性と言っても良い)というものを相当感じてしまうのである。



最後に、温暖化問題の風潮についての個人的見解である。

科学は、つねに不確かさを抱えている。いま進められている温暖化対策にしても、それがじつは不要である可能性もあることを、IPCCは示している。
 地球温暖化にかぎらず、社会が何らかの決定の根拠に科学を使うなら、その見方が外れるリスクを同時に背負うことになる。地球温暖化懐疑論ブームは、その自明の理をあぶり出したのかもしれない。

シリーズの結びの言葉はよく練られていると思う。
わたくしは、温暖化対策について、極端に言えば、世界の中でなぜか日本だけが、挙って《STOP温暖化》をステイタスが確立されたかの如く、ライフスタイルとして掲げてみせたり、果ては人生哲学にして持て囃すような社会的な風潮があることに、たいそう冷ややかな視線をもって眺めている。
所謂LOHASな発言を繰り返す人間に対しては、眉の唾付け作業が間に合わないであろうと、ある種戦慄さえ覚えるほどである。
ビジネスとして捉えていこうとする動きは分からないでもない(そう言う意味で作られたブームの面もある)。
しかし、個々人のライフスタイルにおいて、地球規模を視野に入れた生活活動を考えようといったスローガンは、たいそう立派ではあるけれども、余りに立派すぎるが故に、何かしら胡散臭い。
複雑系の中でわたくしが押したボタンだけで系全体が変わってしまうことはないから自分は何もしないとは言わないが、複雑系であるからこそ、低炭素などという途轍もなく単純で乱暴な看板だけを掲げた生活を金科玉条にする限界性というものも弁える必要があると思うのである。
そうした限界性の存在は、科学の不確かさよりも明らかに確かなものであって、であればこそ、科学以上に謙虚な態度であらねばなるまい。
結局は、個人レベルのビヘイビアとしては、ごくごく当たり前のこと(無駄遣いを減らしたり、意図的な汚染行為をしないこと)を日課とし、それが当たり前のことで或る以上、これ見よがしにそれを主張したりするのは殊のほか味が悪いことなのではないかと思っている。
そうした意味で、ITとコンクリートモータリゼーションの上で文明生活を享受しながら、個々の特異な生活行為(エコバッグ、マイ箸、有機無農薬等)に焦点を当てるというその考え方は、正にナンセンスの極北に位置付けられるものとわたくしは確信している。



本日の音楽♪
「I wish it could be Christmas everyday」(鈴木さえ子