経済学者がダーウィンの海を越えることの本懐

経済学と倫理問題について論じている一文である。

http://voiceplus-php.jp/archive/detail.jsp?id=108&pageStart=0
◆経済学が大不況の原因:坂本慎一(PHP総合研究所主任研究員)
 経済学の数学化は主に20世紀初頭から始まり、より高度な数式で経済モデルをつくることは、経済学の進歩であると信じられてきた。この状況に対し、1970年代ころから良心的な学者のあいだで「経済学の危機」が叫ばれ、経済学の数学化は知識の見せびらかしにすぎず、ただの衒学ではないかという批判がなされた。
(中略)
 高度な数式を使う経済理論は、かつては他人を煙に巻く衒学であり、「経済学の危機」は無意味な数学化に向けられた批判であった。その衒学が、他人を煙に巻いて金銭をせしめる方法に応用されたのである。経済学が不況の克服に貢献できない事態はこれまでにもあったが、経済学自身が世界的な大不況の原因になったのは、恐らく今回が初めてであろう。これは「経済学第2の危機」といってよいのではないか。

 サブプライムローン関連商品の破綻は、つまるところ誤った証券化が原因だという人もいるが、何が誤った証券化で何が許容されるべきか、はすぐれて倫理・道徳的な問題である。ところが経済倫理や道徳を研究する人は、数学化に勤しむ研究者に比べれば圧倒的に数が少ない。研究に予算や人員が割かれないというよりは、倫理や道徳のように曖昧なことを論ずるのは自分の仕事ではないと割り切っている経済学者が多い。
(中略)
 経済学者もまた自分たちの理論が実体経済に影響を与えるならば、この考えを共有すべきであろうし、金融工学の理論をどのように扱うかという問題は、核技術やクローン技術に関する問題と基本的には同じと認識しなければならない。

なにゆえか核技術やクローン技術を引き合いに出してはいるが、学問に携わる当事者においても倫理や道徳というものを大事にしなければいけないといった主張である。
このことは、「科学」と「技術」の問題として捉えることもできようし、かつてわたくしが少しばかり主張した「実学」という考え方とも基底は一致しているのではないかと思う次第である。

こうした捉え方に共通するのは、謂わば学問(科学)の外の範疇の問題として、新たな事象を捉えているということであり、わたくしの認識もそうであった。
しかしながら、こうした技術の使い方とも言える事象は、実は、科学の範疇の中であるということらしい。


Charles S. Peirce(1931)によれば、科学というものは「物理科学」と「精神科学」に分類され、前者を物質の抽象化体系されたもの、後者を慣習の抽象化体系されたものと定義している。
前者は文字通り、物理学、化学、地理学といった学問がその範疇に含まれる。
そして、後者の精神科学には、社会学、人類学、言語学、心理学などといった人間の精神的な側面を追求する科学が含まれるとしている。
なお、興味深いのは、物理科学と精神科学の融合した先に数学があるという点であるが、それは今回の議論とは直接関係がない。

そうした見方もあるものかと納得をしていたところに、冒頭の小論文である。
Peirce的な捉え方をすれば、経済学という科学(学問)を社会に適用(役立てよう)しようとした際に、足りなかった部分というものは、精神科学といった分野における学問的知見、あるいは、その学問的知見、就中、技術の社会への適用(社会化)であったと考えられる。

このことは、社会学、人類学、言語学、心理学などといった精神科学に携わる研究者の力不足というよりも、こうした学問体系が社会への適用というモチベーションを持ちあわせてこなかったことに大きな要因があるのではないかと考察される。


冒頭の論文では、

じつはこれまでにも、日本の資本主義において倫理や道徳を問う思想はさまざまにあった。定番というべき人物は澁澤栄一と松下幸之助であろう。近代資本主義の最初期において「論語と算盤」を強調した澁澤は、今日もなお通用する思想を展開した経営者であり、松下は現代に近い時代を生きたので具体論についても参考になる部分が多い。経営者に対して、澁澤は儒学に基づく経世済民の思想を主張し、松下は仏教に由来すると思われる「素直な心」を説いた。またそれらの観点から、実体経済に何ら貢献しなかったり、害を及ぼしたりする経済学や学者の態度にも厳しい批判の目を向けたのである。

といった人物の思想哲学を再評価している。
優れた思想哲学を併せ持てば十分なのかどうかは兎も角として、学問(科学)が社会で適用される、即ち学問の社会化という視点は、大変に新しくて古い命題であることを今回あらためて識った。


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