御簾を隔てて高座を覗く

「ファイティング寿限無」(立川談四楼)読了。
《酒飲み書店員大賞受賞》という栄誉を背負っている作品ということであり、この見るからに何だかよく分からない重みのある賞の授与という姿勢には、大変に望ましく、頬笑ましいものがある。
解説文にもあるとおり、ストーリーはスポーツと芸道の融合を全面に押し出しながら、前代未聞のとんとん出世の夢物語であるし、強引に横紙破りに挑むこの作家の文章力には確かに人並みの作家以上の巧さというものがある。


と、一通り誉め称した上で、わたくしがこれを読んでる間中ずっと引っ掛かり違和感を抱えていたのが、この作家の文章表現作法というか、センスオブソウルというか、そういった作文の基質についてである。
この小説の中には、時々、余りにも型に嵌り過ぎるが為に、ものすごい窮屈感を感じる箇所が散見される。その型が中途半端に陳腐であるために、いたたまれなさを伴う。力を込めている場所であれば、それが尚更である。
酒飲み書店員が選んだのだから、敢えてそういう気恥ずかしさを感じ無かったのかどうか。
だが、わたくしの読後には、熱い内容とは裏腹に、うっすらと醒めた居心地の悪さというものが霞のようにまとわりついたのも事実である。
これが作家としてのセンスなのか芸人としてのセンスなのかはあまり追求したくないが、「一皮むければ」といった類の質のものではないような気もする。


落語青春小説の先例としては、「しゃべれどもしゃべれども」(佐藤多佳子)がある。
わたくしはこの小説は当該作家の最高作の一つであると思っていて、私家愛藏の一冊に加えている。
この作品には、前述の作品に感じたような窮屈感とか痛々しさといったものは全く見当たらない。
さすれば、前述のような作家を(落語家であることを幾分割り引いたとしても)巧いと褒め称してはいけないということなのか。
解説者諸氏、充分肝に銘じておくべきか。


先の感覚的な違和感とは別に、両者を読み比べれば一目瞭然なのであるが、主役とそれを取り巻く登場人物全てへの読者の肩入れ感、思い入れ感というものが明らかに異なるであろう。
正負を含めた感情移入ということが小説の死命線であることを改めてこの場で確認をする。
それは作者が有する作中人物への思い入れ感とは反比例するものなのかもしれない。
之即ち、適度な突き放しは親心に似たり。


本日の音楽♪
「American Pie」(ドン・マクリーン)