莨のケムリ

RCサクセションではないが、高校時代の政治経済の先生は、草臥れて年老いてヤニまみれの芥川龍之介のような風体の人だった。
よれよれのスーツに、駱駝色のウールのチョッキをいつも着ていた。
訥々、というか、ぼそぼそ、アーウーと話すまるで話し下手の噺家のような授業であったが、一つ一つの話が大変為になった。
職員室では、いつも莨(:たばこ)のケムリの中に埋もれて座っていた。
学校の中でも教師陣の中でも率先して何かをやるといった目立つ先生では全くなかったが、級友の中には、「大人になったら、あの先生のようになるんだ。」という渋い(渋すぎる)夢を語る者もいた。

わたくしのむかしを振り返ると、非常に個性的な先生が多かった気がする。
その後、わたくしも社会人となり、それは数多くの個性的な人々と大小交わってきたわけであるが、そうした経験を加味したとしても、あの頃の先生には味わい深い人物が多かった気がする。

柳家金語楼似の数学の先生は、「数学だけはお前達を県内一にしてやる」と豪語して、徹底的に鍛えて戴き、その通りにしてくれた。
卒業後、麻雀卓を囲んだ際に、(撃ち手に対して)志が低い!と叱り、それを信じて大物手を狙うと、甘いわ!と言って教え子から容赦なくあがって平然としておられた。

桂枝雀似の体育の先生は、プライベートで刃傷沙汰を起こしたらしく、暫くの間、どこかに島流しの身になっていたが、ほとぼりの冷めた頃に再着任をし、その際の再開授業の冒頭挨拶で、生徒達に、人懐こく、しかし、情けなさそうな兄(:あん)ちゃんのような笑顔を見せていた。

熱血漢の教育実習生は、手書きで自ら作ったと覚しき問題集を宿題として出し、教室の大半がその宿題をやってこなかったと分かると、次の時からは、問題集と一緒に、手書きの回答集をあわせて配布し、これがあれば白紙で出すことはないから大丈夫と高らかに笑っていた。

ゲイに間違いなさそうな先生もいた。

たいへん厳しい英語の先生もいた。
いつも胸を反らして歩き、舞台俳優のような竹を割った喋り方をしていた。
宿題は山のように出された。宿題を忘れると、男女お構いなしに、皆の前でビンタが待っていた。
発音、文字、姿勢の美しさに拘った。
NHKテレビに出演した時は、借りてきた猫のような優しい先生が画面に映し出されていて、面食らった。
わたくしが突然転校することとなった際、担任でもなかったのに、わたくしに辞書を手渡してくれた。
奥付のところに手書きの流麗な文字で「常に明るく勇気をもて」と書かれてあった。

不義理のため、どの先生ともその後の交流は絶たれている。
鬼籍に入られた先生も多かろう。


本日の音楽♪
「鴨川」(馬場俊英